1998/06/10/(水)

きのう / きょう /あした


街角のミュージーシャン
Harvard Squareには、土、日には必ず「大道藝人」が登場する。いつもやって來るのは南米のグループ。ペルーかどこかの出身だろうが、毎度お決まりの「コンドルは飛んでいく」。他に、やはり南米の人で、手作りの16弦ギター(と言うより、インドのシターンとアイリッシュハープに近い音色で、形は琵琶みたい)をつま彈いてくれる。これは實にいい。あと、ロック風なやつも現れるし、「ギター1本の渡り鳥」風な人、デュオ、パーカッション(これもビール樽とかあり合わせのものを利用)だけとか樣々である。でも、私が氣に入っているのは、地下鐵のホームのミュージーシャンである。いつも同じ人ではないが、特にアコスティックギターの少し年輩の黒人男性のがいいのだ。歌詞はよくわからないが、ブルース風で、聲もいいし、ギターもいい音を出している。女性でもジョン・バエズによく似た聲で歌うのがいて、これもまたいい。いつの日かボブ・ディランやバエズのように世に出ることを信じながら歌っているのであろう。それがたとえ「見果てぬ夢」であっても、「夢」をもつことこそが重要なのだ。これこそ今の日本に欠けているものではないか。大體、日本では地下鐵のホームでギターなんぞを彈いたりしたら、即お巡りさんに御用である。「新宿フォークゲリラ」以降、この手のものは日本では一切禁止なのだ。そんな状況からは本当のフォークなんて生まれやしないのだ。「若者よ書を捨てて街に出よう」ではないか。もっとも、若者は「書」なんて、とっくの昔に捨ててしまっているかな??


大學院時代の友人から「日記」を見た感想を頂いた。彼とは大學院時代アパートの部屋が隣同士で、よく食事を作ってもらった。英語學が専門だが、現在福井に居る。彼の感想の中で「漢字が讀みにくい」という指摘があったが、これは實は意識的である。舊字體、舊假名(歴史的假名遣い)主義なのであるが、舊假名は現在は避けている。決して國粋主義者ではないし、寧ろ逆だが、時枝言語學の影響と考えて欲しい。

【午前】

今日はYenchingで1日過ごす。本當は林琴南の「伊索寓言」について早く原稿を纏めないといけないのだが、今日も一昨日からの調べものに時間を費やしてしまった。私の悪い癖で何かに興味を持つと、暫くはそれをとことんやってしまいたくなる。さて、件の書である。
「天主降生・・」の方は、Cordier1901で示されている「出像經解」という結論である。Cordierによれば1637年出版である。ただし、Cordierでは29葉となっており、Houghton蔵のものは、恐らく3葉欠である。Cordierで挙げている「天主降生言行紀略」を元に作られたもの。また表紙の短冊(と言うのかな?)は後に付けられたものではないかと考えている。
もう1冊であるが、これはいくつかの可能性が出て來た。Houghtonの本書に付けられたタイトルは確かに「1581年から1681年の耶蘇會士目録」だが、中身は「聖人の傳記」である。しかも、Houghtonのタイトルがおかしいと思うのは、出てくる人物の歿年が述べられていて、いずれも1200年代だから、1581-1681と言うのと符合しないからである。もし、これがCoupletの書とすれば、該当するのはCordierでいう「周歳聖人行略」である。その説明には「Vies abregees des Saints de toute I’annee」とある。フランス語が出來ないので困っているが、これは「100年の聖人の傳記」とかは讀めないんでしょうかね?で、Cordierで「~行實」という書名を探してみるとVagnoni(中國名を高一志)に「天主聖教聖人行實」と「聖母行實」がある。これは徐宗澤の書目にも説明があるが、前者は全7巻で、たとえば第3巻は「十二位致命聖人」とあり、この本の「致命巻3」と言うのと似通っている。同じく第6巻は「十二位童貞聖女」であり、「聖女巻6」とほぼ一致する。ただ現物を見ないと何とも言えないところではある。「聖母行實」(1631)はYenchingに所藏されていて、早速見たが、言語、文體が違う感じがする。まあ、ここで出來るのはこの邊りまで。後は今後の調査を待つことにする。

【午後】

Yenchingを3時半頃出て、大學のパソコンショップへ。MacOS8.1のUS版を購入。日本語OS8.1は近く東京の友人から送られてくる豫定。一度、兩方を再インストールするつもり。歸宅すると、家族に頼んでおいた沈さんと荒川さんの本が屆いていた。最初から持ってくればよかったのだが、荷物が多くてこうなった次第。荒川さんの本は力作なのであるが、「熱帯」に關して實は最近、ひょっとして「西方答問」を見落としているのではと思っている。ところで、沈さんからの情報で「近代英華・華英辭書集成」なる企画がA大學のK氏によって進められているとのこと。非常に劃期的なものであり、刊行が待たれるところである。ただ、氏の企画概要で「近代英華・華英辭書類が日中兩國の近代語研究資料として本格的に利用されるようになったのは、1980年代に入ってから・・」と述べられている。この記述が些か氣になっている。すでに50年代から日本でも魚返善雄をはじめとして、太田辰夫、香坂順一、尾崎實と言った人々がこの関係資料の重要性について語っているし、實際にそれらを利用して多くの論考を殘しておられる。また「中國語學事典」などでも、不十分ではあるが、「ヨーロッパ人の語學研究」とかの項目を掲げている。自己の研究に自信と誇りを持つことは大切であるが、先人の研究成果を十分に檢討、調査することは研究者にとって最低限必要なことではないか。自戒の意味も込めてここに記しておきたい。

【夜】

メールチェック。
ホームページの更新、その他

【今日の食事】

朝食:トースト、コーヒ、ジュース
晝食:鶏肉焼きめし、コーヒ($3.50)
夕食:中華盛り合わせ、コーヒ
お晝に久しぶりでチャイナ・キッチンで中華を食べたら、夜も中華だった。失敗。でも、今日は2回も米を食べた。


3/28-5/31にしたこと

  • 「イソップ中國語飜譯小史」(仮題)初稿(約32,000字)

今日コピー(全巻)したもの

    なし

パソコン關係


【アメリカでの連絡先】

Keiichi Uhcida
C/O Mrs.Barbara
27Daniels St,Arlington,MA 02174,USA

or

Keiichi Uchida
Department of Asian Languages and Civilizations
2 Divinity Avenue,Cambridge,MA 02138,USA


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