1998/10/16(金)
福井大学教育学部中学校教員養成課程中国語科
ハーバードとは無関係の話題で申し訳ないが、今日はこれでいく。
私の後任で福井大学に赴任され、その後、早稲田大学に移られた村上さんの昨日のメールのよれば、来年度から福井大学の教育学部が改組され、「教育地域科学部」という名称に変わるとのこと。何だがよくわからない学部名であるが、いずれにせよ日本の国立大学教育学部で唯一の中国語科はその幕を降ろすことになる。新しい学部では中国語の免許状取得も不可能になるとのこと。実に嘆かわしい限りである。「その誕生から消滅までのちゃんとした記録を残しておかなければと思います」と村上さんが言っているが、確かにその通りだ。
福井大学教育学部(古くは学芸学部)に中国語科専攻が置かれたのは、故寺岡龍含先生の功績が大である。新制大学として発足した昭和24年から、まさに「孤立無援」と言ってもよい状況下で、先生は生涯一貫して「中国語科」の設立に尽力された。教員定員2人(国語科漢文学の定員。3人になったのは私が赴任した昭和53年から)でよくあそこまでやられたものだと思う。寺岡先生以降も、毎年の概算要求で定員を要求したが、文部省は最後まで「中国語科」としての教員定員は認めなかった。(なお、学生募集定員も1人)当然、「教官定員のない科目や大学独自の科目は学科目として認めない」という文部省の方針のために、「中国語学」「中国文学」という学科目も学内措置であったはずである。にもかかわらず、昭和25年にはすでに、まず「中国語」を専門科目の中に置き、27年からは一般教育科目としての中国語と、専門科目の「中国作文」「中国会話」「中国語科教育法」をそれぞれ設置して中国語科教員免許状が取得できる体制を作られた。その基礎の上に、現在までのような、教育学部でありながら、他の文学部中国学専攻とほとんど変わりのないカリキュラム(中国哲学、中国語学、中国文学の3学科目)が出来上がったのである。
ということで、今日は燕京図書館で「漢文學」(福井漢文學會)の創刊号(1952年)から、故寺岡龍含先生の「漢文(中国語)教育」に関する論考を読み返してみた。それを読むと、現在でも十分通用する内容であるし、日本の外国語教育や「漢文と中国語」に対する認識は50年近くほとんど変わってないことを痛感する。
先生の基本的な立場とは以下のようなものである。
- 漢文=中国語文は外国語である。
- 音読訓読相関同時併習法こそ漢文教育の常道である。
- 訓読漢文としてのいわゆる「漢文」と外国語としての「中国語」とを一本建にしての強力な独立教科設定
- 漢文学=中国学(支那學)
- 少なくとも訓読漢文を教えるものは現代中国語の力をもっておるべきであり、現代中国語を教えるものは訓読漢文の力を持っているべきである。
こうした基本的理念の上に、「国語科と中国語科教員免許の2つを取得すべし」とか「大学はもちろん、中学から英語という中国語の履修を行うべし」と以下のように主張される。
これらの主張はいずれも昭和26年から32年辺りのものである。「過激」なまでの主張であり、昭和24年から昭和34年までは、なんと入試科目に「中国語」も含めているのである。さぞかし、大学では「けむたい」存在であったことだろう。
なお、福井大学の漢文学専攻と中国語科専攻のもう一つの大きな特徴として、「集中講義」の制度が挙げられるであろう。毎年、夏と冬の休暇中に開設されるものであるが、この制度を確立されたのも寺岡先生であった。私の学生時代だけを例にしても、音韻学は坂井健一、辻本春彦の両先生、文法学は高橋君平、宮田一郎、香坂順一といった先生方、日本漢学は松下忠先生という具合である。それ以前やそれ以降も、たとえば藤堂明保、金谷治、平山久雄、筧文生、佐藤晴彦、荒川清秀といった先生方に出講して頂いたし、私の現在の勤務校の坂出先生や日下先生にもおいで頂いている。また、金沢大学や富山大学からは、毎週或いは各週の非常勤という形で、三宝先生や磯部先生、また以前は相原先生や佐藤進先生にお願いしたりしていた。
現在、福井県には、県立高校や私立高校で、寺岡先生が主張されたような中国語コースをもつ高校が何校か存在する。私の学生もそこで教鞭をとっているが、今後は福井大学からそのような場所で活躍する機会は全く失われたわけである。よそさまの大学のことではあるが、そこに学生時代の4年間と、教員として12年間籍を置いたものとして実に寂しいことである。
昨日の王韜日記に登場する「戴君」だが、まだ断定はしかねるが、時期的(1854-1855年)に判断して、恐らくは、「戴徳生(戴雅各)=Taylor,James Hudson」のことであろう。Wylieの「Memorials of Protestant Missionaries」には次のようにある。
Rev.JAMES HUDSON TAYLOR was appointed a missionary to China,by the Chinese Evangelization Society,and arrives at Shanghae,on March 1st,1854. In 1856 he was engaged for some months at Swatow in cooperation with the Rev.W.C.Burns.Returning to Shanghae,he went to Ningpo the same year.(223p)
なお、Taylorは内地会(China Inland Mission)の創設者である。彼はまた英米領事館とも深く関わりのある人物で(顧長声「伝教士與近代中国」)、王韜もしばしば英領事館に通っていたことは日記からも窺えるから、両者のつながりは十分考えられる。
【午前】【午後】
昨日から王韜の日記を読んでいて、非常に気になる人物がいる。今日は、それを調べていたが、未解決。明日に持ち越し。4時過ぎ帰宅。明日からバーバラさんはカリブの方へバカンスに出かける。
【夜】
メールチェック。他。
【今日の食事】
朝食:コーンフレーク、トースト、コーヒ
晝食:燕京ランチスペシャル
夕食:カニサラダ、パン、コーヒ
3/28-5/31にしたこと
- 「イソップ中國語飜譯小史」(仮題)初稿(約32,000字)
6/1-7/10
- 「イソップ中国語訳の系譜」(約40,000字)
今日コピーしたもの(マイクロを含む)
- 特になし
パソコン關係
- 特になし
【アメリカでの連絡先】
Keiichi Uhcida
C/O Mrs.Barbara Marchese
27Daniels St,Arlington,MA 02174,USA
or
Keiichi Uchida
Department of Asian Languages and Civilizations
2 Divinity Avenue,Cambridge,MA 02138,USA