『一握の砂』
2004/02/16(月)
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
先週の土曜日の「日本のうた」で「雪」にまつわる歌の特集があったが、歌の前には、宮本アナウンサーによる三好達治とかその他の詩人の「雪」を詠んだ歌の朗読もあった。
その中で、久しぶりにもう一度読んでみたいという思いにかられたのが、石川啄木であった。
実を言うと、啄木にしろ、他のいわゆる純文学系のものは、高校時代が終わってからはあまり読んでいない。というか、高校時代に旺文社文庫が創刊されて、3年間でそれをほぼ読み切ってしまったからである。あの頃、ほぼ毎日学校の帰りに本屋に立ち寄り、新しい配本がないかを確認し、あれば必ず購入して、家に帰るとその日のうちに読んでしまうという繰り返しであった。家の暮らしが楽でないのは分かってはいたが、母は本代だけは次の日の店の買い出しの金を減らしてでも嫌な顔もせずに渡してくれた。当時の旺文社文庫は緑色の箱入りだったが、いつの間にか、僕の部屋の本箱はそれでいっぱいになっていた。集まってくるとまた買うのが楽しくなる。今の僕の本への執着というか、あるものに対する「凝り性」というのは、この時代に培われたのかも知れない。
そう言えば、あの頃僕は、旺文社文庫と、枕草子や源氏物語、徒然草、あるいは古文真宝、十八史略とかいった和漢の古典ばかり読んでいた。受験勉強よりもずっと面白かったからである。
ただ僕の古典の読み方も「偏り」があって、日本の古典の場合は、それをノートに書き写した後に、一つ一つ品詞分解して解釈していくというものだった。内容を読むというよりは、文法に興味を感じていたのである。漢文は、できるだけ白文で読むようにしていた。自分で返り点を付けていくのが面白かったのである。要するに、高校時代は国語ばかりやっていたということになる。
さて、話は戻って、啄木だが、しびれたのは、次の歌であった。
やはらかに積もれる雪に
熱(ほ)てる頬(ほ)を埋むるごとき
恋(こひ)してみたし
その年になって「恋」の歌でもないでしょう、という声も聞こえてきそうではあるが、幾つになっても人は「恋する」心を失ってはいけないと僕は思っている。人を恋するという行為は人が生きていく上で最も大切なことのように僕は思っている。
そんなことを思いながら、僕は何十年かぶりに啄木の「一握の砂」を、今、手にしている。