No more Nagasaki

きのう/きょう/あした


2004/08/09(月)

No more Nagasaki

<Ground zero 2004.8.9.AM 9:00>

その日から59年が経ったのだ。
59年前の今日、これから後2時間後の一瞬に、この地がこの世の地獄と化すことを誰が想像しただろう。
僕は今、その場所に立っている。

<被爆59周年長崎原爆犧牲者慰霊平和祈念式典>

実は、昨日(8/8)の宮崎での教育後援会の出張が終わったら、その日に大阪に戻る予定で飛行機も予約済みであったのだが、8月6日の広島市長の「平和宣言」を聞いて、急遽、予定変更。宮崎から長崎に行くことに決めたのである。
もちろん、宮崎から長崎は非常に不便で(列車だと8時間弱、飛行機は1日2便でプロペラ機)余計な出費がかさむのは分かっているし、9日も夕方、人と打ち合わせがあるので、長崎発1時過ぎの飛行機で大阪に戻らないといけない。平和公園から空港までは車で約1時間。タクシーを使うしかない。「何をそこまで」と人は言うだろう。でも、行かねば気が済まなかったのである。

10時45分、「平和の鐘」の打ち鳴らされる中、高校生2人による司会で式典は始まった。
あの日も今日と同じように暑かったはずである。しかし、11時02分、その何百倍、何千倍もの熱と光が人を襲ったのである。

灼熱の 8月の空に 鳴り響く 願いは一つ 長崎の鐘
太陽も 水をも溶かす 原爆も 燃やし尽くせぬ 平和(ひと)の祈り(こころ)は

原爆死没者名奉安、式辞のあとに、「献水」が行われた。
「水、水を下さい」と言って死んでいった人たちへ捧げる水である。

太陽が この世に落ちぬ 11時02分 水を下さい 命の水を
我が子よと 父よ母よと 泣き叫ぶ せめて与えよ 一滴の水を
お母さん 助けてこわいよと 泣き叫ぶ この声をこそ聞け 人にしあらば

11時02分、黙祷。
式典会場の隣の爆心地では、市民団体による独自の集会が行われているようで、時折、「戦争反対」などのシュプレヒコールが聞こえていた。せめて、「黙祷」の間くらいは、静かに祈りを捧げるべきではないのか。「自分たちこそ平和の使者」と考えることは、思い上がりである。

黙祷の 合間も聞こゆ シュプレヒコール 虚しくひびくは 歳月(とき)の流れか

11時03分、平和宣言
長崎市長のアメリカ市民への訴え、日本政府への要求。いずれも人として当然のものである。ただ、僕がより共鳴したのは「若者たちへの希望」である。司会を担当した高校生のしっかりとした語りにこの国の未来を託したいと思った。やはり、希望は青年に託すべきものなのである。

小泉首相の挨拶が始まったところで、僕は会場を後にして、空港に向かった。聞くべきものはないと思ったから。
それでもやはり、来て良かった。身体中汗が噴きだしていたが、心は何時にもなく何故か爽やかだったから。