「王韜日記」に見える「化学」と「戴君」についてのノート

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「王韜日記」に見える「化学」と「戴君」についてのノート

王韜の『[くさかんむり+衡]花館日記』(咸豐五年)に以下のように「化学」という語彙が使われていることは、これまでに八耳1997等でよく知られている。

十有四日丁未是晨郁泰峰來同詣各園遊玩戴君特出奇器盛水於杯交相注易頓復變色名曰化學想係[石+黄]強水所製出顯微鏡相視一髪之細幾粗如拇指皎白有光呈巧獻能各臻其妙洵奇觀也巳刻麥公往龍華・・・

ところで、この奇妙な道具で「化学の実験」をして見せた「戴君」という人物についてである。
この戴君については、咸豐四年(1854)八月十二日の日記にも登場する。

十有二日戊申潘氏舊宅近於北城是日有紅巾四五十輩至其宅取物其僕奔告予特同英人戴君驅逐之暮往潘氏室

上の「麥公」とは「麥都思」つまりMedhurstのことであるが、王韜の日記には、この他、慕維廉(Muirhead)や「壬叔」すわわち「李善蘭、あるいは徐親子がしばしば登場し、王韜の交友関係がある程度窺い知れる。

さて「戴君」だが、確証はまだ得られていないが、時期的(1854-1855年)に判断して、恐らくは、「戴徳生(戴雅各)=Taylor,James Hudson」のことではないかと思われる。Wylieの「Memorials of Protestant Missionaries」には次のようにある。

Rev.JAMES HUDSON TAYLOR was appointed a missionary to China,by the Chinese Evangelization Society,and arrives at Shanghae,on March 1st,1854. In 1856 he was engaged for some months at Swatow in cooperation with the Rev.W.C.Burns.Returning to Shanghae,he went to Ningpo the same year.(223p)

Broomhallの「Hudson Taylor & China’s open century」(vol2,1986)の次の記述は「彼と化学」の関係を強く示唆するものである。

He admired the Chinese people. He found the peasants far more polite and forthcoming than their English equivalents, and the educated eager to see his photographic processes or system of chemical analysis.(156p)

ここの「the educated」の中に、王韜が含まれはしないかということである。日時が問題であり、そのことは後日の調査を待つとして(実はロンドン大学図書館にTaylorの書簡集が保存されているという情報を学習院大学の武内房司氏から得ており、その中に詳しいことが書かれてあるかも知れない)、王韜に写真現像の過程を見せた可能性は十分にある。写真の焼き付けは、まさに「変化」の典型的なものではないか。

Taylorは「Photography(写真)」の技術、特に焼き付けの高い技術を持っていたようであり、一人で町に買い物に行けるようになると、早速、それらの薬品のための瓶を買い求めたりしている。

He began to go shopping on his own. There were bargains to be had in the increasingly deserted and derelict city as people sold their possessions, even whole libraries, to buy food- for a song he picked up bottles to hold the chemicals he was preparing, books, musuical instruments, a musical stone.
The weather is now too hot to take photos by the Collodion or Caletype processes[he wrote], and I have not yet found a suitable wax for the wax-papaer process.(br)
Daguerrotypes(of 1837) were still in vogue and wet collodion photography was only five years old. Dry plates were not available until 1874, twenty years in the future, so do-it-yourself photography was the only way. But there were more than enough other interests.(174p)

また、この「化学」に関する訓練と写真の技術は彼の父と伯父からのものであった。

His photographic apparatus was unharmed, however, and as well as using glass he began experimenting with different processes of making photo-sensitive paper. His father’s training in chemistry and his uncle Richard Hardey the photographer’s skills were to prove useful.(147p)

なお、Taylorは内地会(China Inland Mission)の創設者である。彼はまた英米領事館とも深く関わりのある人物で(顧長声「伝教士與近代中国」)、王韜もしばしば英領事館に通っていたことは日記からも窺えるから、両者のつながりは十分考えられるのである。

ところで、「化学」という言葉を、王韜自身が考え出したのか、それとも実験を見せた人、つまりTaylorが口にした言葉であるかという問題がある。Taylorの中国語は当時それほど達者ではなかったことは、前掲書やDr.and Mrs.Howard Taylorの「Hudson Taylor in early years」(1912)からわかる。しかし、メドハーストの英華字典をはじめ、ギュツラフの文法書、エドキンズの会話書などを購入して中国語の学習に力を注いでいたし、またロブシャイドとも共に旅行をしたりもしている。そういうことを考えると、彼が自ら、あるいはメドハーストやロブシャイド、エドキンズ辺りからヒントを得たりして、Chemistryに対する訳語(つまり「化学」)を王韜に述べたことも考えられないことではない。

戴君:「よく見ていて下さいよ。ほら、化わったでしょう?」
王韜:「ほんとだ、不思議だ。これを西洋では何て言うの?」
戴君:「西洋では、こういうことをする学問をchemistryと言いますね。変化することから、中国語だと、さしずめ化ける学、つまり化学とでも翻訳しますかね」
このような会話が実際にあったかどうかは神のみぞ知るであるが。

On mondy I got Dr. Medhurst’s Dictionary. The price of the four vols. is $20, but he let me gave it for $10. He gave me his dialogues and Dr. Gutzlaff’s Grammar. I also got Mr. Edkins’s ‘Chinese Conversations’….Mr. Edkins then went round with me and introduced me to most of the missionaries I had not previously seen.(143p)

(1998.10.18初稿、10.19改稿)

実は本日(10/20)、「戴君」はやはり「Hudson Taylor」であることが判明した。王韜日記には確かに次のような記述があったのである。

二十日丙戌至牧師戴雅各齋中・・・(咸豐4年9月20日)

しかも、これはすでに、王爾敏の「王韜早年從教活動及其與西洋教士之交遊」(香港大學『東方文化』巻13期2,1975、なお後、王治平主編『近代中國與基督教論文集』宇宙光出版社1981再版に所収)で明らかにされていることであった。ただし、王は「化學」については触れていない。

ところで、島尾永康『中国化学史』(1995 朝倉書店)には次のようにある。

『博物新編』にはまだ化学という文字は見えないが、「養気」(酸素)、「淡気」(窒素)、「軽気」(水素)、「炭気」(炭素)の製法と性質が述べられる。ついで無機酸の製法と性質が述べられる。これまでの明清代の中国人の強水の記述には、その種類についての言及はなかったが、ここで初めて「硝酸水」または「火硝油」(硝酸)、「[石+黄]強水」または「火[石+黄]油」(硫酸)、「塩強水」(塩酸)と、無機酸の命名法を示した。硝酸水、[石+黄]強水、塩強水はこの後、1870年代の化学書の翻訳で採用されることになる。(319p)

ここで言われる「[石+黄]強水」であるが、実は「化学」の文字と共に、この王韜日記に使用されている。王韜が先か、合信(Hobson)が先か?しかも、上記の王1975でも述べられているように、王韜はこの合信と特に深い交流があった。とすれば、このどちらの語彙も両者の「合作」という可能性が非常に強いように思われる。(1998.10.20補足)

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