「中国語教育の歴史と現状」(「関西大学一般教育センター紀要」掲載予定)
中国語教育の歴史と現状 内田慶市
0.はじめに
現在の日本における中国語教育、特にその大学における外国語教育に占める位置を考えた場合、受講生の数だけをとってみても、一昔前に比べたら隔世の感がある。ほとんどの大学において、英語を抜きにした諸外国語の中で、極めて突出した数を示している。そのこと自体は寧ろ歓迎すべきことではあるが、一方で様々な問題も抱え込んでいる。外国語としての中国語教育法(論)の早期の確立、体系的・効果的なテキストの編集、あるいは受講生の(と言うよりは、日本人の心の奥底に根強く残る)中国語に対する認識の問題等々である。小稿では、そのうちの幾つかの点について考えてみたいと思う。
1. 近代日本における中国語教育の歴史的性格
「明治以後の近代日本の中国語教育は昭和20年の敗戦を境として、その前後で質な大きな違いがある」(六角 1994)と言われるように、明治以降、敗戦までの日本における中国語教育は、日本人の対アジアに対する認識と深い関りをもっている。
外務省による「漢語学所」の開設(1871)ということから、すでにその「裏街道の語学」の道は開かれたと言ってもよい。一方の開成学校系の「洋語学所」に設けられた英・仏・独という欧米諸語の扱いに比べて、「漢語学所」の中・露・朝のアジア系言語は、あくまでも「通弁(通訳)の養成」のためだけにあった。従って、その後の東京外国語学校(旧外語)設立の際の取り扱われ方も違っていたし、更にはその廃校に伴う処置においても、欧米諸語が帝国大学予科の大学予備門へ吸収されるのに対して、「魯・清・韓」は高等商業学校第3部へという具合である。つまりは、欧米諸語は「高等な語学」であり、アジア言語は「下等な語学」という認識である。
そして、当時の日本がおかれていた「情況」を考えると、この道以外に選択の余地がなかったと考えられなくもないのだが、「わが国は隣国の開明を待って共に亜細亜を興すの猶予あるべからず・・われは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(福澤諭吉1885「脱亞論」)というこの発言が近代日本の外国語教育、ひいてはその後の日本の外国語教育に対する認識を決定ずけた。「脱アジア」、「アジアの切り捨て」という近代化政策の理論的支柱とも言うべき「脱亜の思想」が、外国語教育における中国語のあり方を規定することになるのである。「西洋の近代文化」を受容するための「正」の面を担う外国語と、「負」の面を担う外国語、別の言い方をすれば、「文化語学」対「実用語学」というあり方である。また、これ以降、敗戦までの中国語教育は、「兵隊支那語」という語に代表されるように、きな臭さが漂よう「戦争語学」という一面も併せ持つことになる。
1-2.「実用語学」
ところで、近代日本の外国語教育における中国語の位置づけは上述の通りであるが、そこで用いられたテキストや中国語そのもののレベルについて考えてみると実は意外な面が浮かび上がってくる。
当時のテキストの代表的なものとして、初期のものとしては『亜細亜言語集-支那官話之部』(広部精 1878)、『官話指南』(呉啓太、鄭永邦 1882)『四聲聯珠』(正確には『自邇集平仄編四聲聯珠』福島安正 1886)、『華語[足+圭]歩』(御幡雅文 1886)など、後期のものとして『急就篇』(宮島大八 1904)『華語翠篇』(東亜同文書院 1916)などが挙げられる。これらのテキストには語彙や文法等の説明など一切ない。
たとえば、『急就篇』の構成は、「単語」、「問答之上」、「問答之中」、「問答之下」、「散語」となっている。一応、江戸時代の「唐話」学習テキストの伝統をふまえて、「単語」から入り、「短い文」から「長い文」という程度の工夫はなされてはいる。「問答之上」は「來了麼ー來了」「走了麼ー走了」「去了麼ー去了」という感じで始まり、「問答之中」では「天晴了麼ー晴了」「有風没風ー没有風」と少し長い文となり、最後の文章は「桃郎征鬼(桃太郎の鬼退治)」となっている。
そこには単に「練り上げられ磨きあげられた章句に満ちた」(安藤1988 41p)「生」の中国語が書かれているだけである。しかも、相当な分量である。へたな文法の説明などは必要なく、ひたすら「丸暗記」するのである。しかも、それが次の安藤1988で書かれているように、そのまま実際の場で使われるというから、まさしく「実用語学」の面目躍如たるものがある。
『急就篇』に、「私たちは城内を出て釣りにゆきます」「いまごろはどんな魚が釣れるのですか」「たいていの魚はとれます。コイ、フナ、ケツギョ()など」「ケツギョはよく釣れますか」「いや、うまくぶつからないと・・・・」という問答があり、たしか西直門を出はずれたあたり、と教わったような気がするな、と思いながら、いまの首都体育館の裏手の小川のほとりに行ってみた。するとそこには釣糸を垂れている人びとがたくさんいるではないか。
私は、ひとりの中年の男のそばに寄って、渡俊治先生そのままの口調で暗記していたのを、もう少し北京語らしくして、「這時候有甚麼魚?」(いまごろはどんな魚が釣れるのですか)と訊いてみた。するとおどろいたことに、男の返事が、「差不多的魚都有。鯉魚、喞魚、華喞魚甚麼的」(たいていの魚はとれます。コイ、フナ、ケツギョなど)と返ってきたではないか。(安藤1988 42p)
安藤1988の引くこの例文は『急就篇』の「問答之中」の113番目の例文であり、「喞魚」は実際は魚偏のそれなのであるが、いずれにせよ、これは「並」のテキストではないことがわかる。体系的に、あるいは難易度や文型等の配列を考えて作られたとは到底思えない。しかし、そこで用いられる中国語の例文には信用がおける。それを編集するには、ネーティブにほぼ匹敵するくらいの相当な中国語力が要求されたはずである。教える側も同様だ。並の力ではとても教えられたものではないだろう。
「手ヲ挙ゲロ俺ハ憲兵ダ。オ前ノ身体検査スル。早ク服ヲ脱ゲ」(『支那語教程』1943)とか「動くな、動くと撃つぞ」(『憲兵支那語会話』1942)という例文
に象徴的なその「内容」に関してはともかく、中国語そのものだけを見た時、私たちはそのレベルの高さに一種の尊敬と驚きの念を禁じ得ないのである。果たして現在の私たちにここまでの文が作れるだろうか。
とにもかくにも、近代日本の中国語教育はそのように行われたのである。
2 .戦後の中国語教育
戦前の中国語教育の主要な舞台は「民間」にあった。大学を中心とする、いわゆる「高等教育機関」においては中国語はあくまでも極めてマイナーな立場に置かれていた。
戦後になり、ようやく大学における中国語教育が制度化され、欧米の言語と同様に各大学で中国語の授業が開設されることになる。また、それまでの経験主義的な教授法(もちろん戦前の中国語教育が全て経験主義的であったのではなく、たとえば、伊沢修二に見られるグラハム・ベル直伝の「音声学」を基礎とした発音教授法なども存在した)から、中国語学研究会(後の中国語学会)の設立に代表されるように、語学研究を基礎とした「科学的」な教授法の確立が求められるようになった。その後、国交回復を境にして、日本の大学教育における中国語履修者数は年々増加し、現在に至っている。英語などと同じく、中国語検定試験も実施されるようになっている。
戦前の中国語教育が「実用語学」であったというならば、戦後のそれは「文化語学」の仲間入りをしたと言うこともできる。「中国を知るために、中国語を学ぶ」という一種の「教養主義」への転換である。しかし、それはまた、中国語のレベルあるいは運用能力の低下という危険もはらんでいた。毎年、山のように出版社から献本される中国語テキストを見ると、その感を強くする。
そして、何よりも中国語履修者の意識、さらには日本人の中にある中国に対する認識の問題である。これは、ひょっとして、戦前、戦後を通して全く変化していないのではないかとさえ思えたりする。
戦後の中国語教育において先ず第一に叫ばれたのが「中国語は外国語である」ということであった。この「当たり前」のことが実は当たり前でないのが、「中国語の不幸」である。
現在のわが国でもっとも正当に認識されてゐない外国文化は支那文化であり、もっとも不幸な状態に放置されてゐる外国語学は支那語学である。
このように始まる「支那語の不幸(すなわち「中国語の不幸)」(吉川幸次郎『文藝春秋』昭和15年9月號)は今もって解消されてはいないように思う。
吉川幸次郎のあげる「支那語の不幸」とは、「同文であること=外国語として意識されにくい」「(外国語として意識されても)やさしい外国語であること」「(外国語の意識をうすくする)漢文訓読」の三点である。
確かに現在の日本人、特に若い学生達にこのような意識があるとは思わないし、思いたくはない。もしあるとすれば、むしろ「中国語をやって何になる」「中国語履修が5割を超すのは問題だ」というように考えたりする世代であろう。
また、「漢文訓読」について言えば、日本人の伝統の智慧であって、決して一概に排除するべきものではない。肝心なのは、その場合でもそれは「外国語」であるという認識である。「漢文」、すなわち「古典中国語」も「現代中国語」も同じ「外国語」なのである。
支那の現代語を普通教育の教科にしようといふやうな者は、もつての外のことといはねばならぬ。現代支那語を学ぶことは、日本人にとつて何の教養にもならぬからである。(津田左右吉『支那思想と日本』岩波新書 1938)
重要なのは、日本人の「中国認識の二重構造」(古典中国に対する憧憬と現代中国に対する軽侮=安藤彦太郎)に基づくこのような認識が、実は日本人の意識の土壌の中に深く入り込んではいないかということである。
3. 最近の中国語教育
最近の中国語テキストの出版数は年々増加し、その内容も様々である。どれも趣向を凝らし、学習者に優しく、楽しく中国語を学ばせようとする意図が見える。音声教材も充実してきたし、CD-ROMやCAI、CALLといったマルチメディア教育の試みも始まっている。インターネット上での中国語学習までもできるようになってきた。コンピュータを使った教材は、学習者の興味を引くという点や、音声や画像が使えるという利点がある。まさに「百花斉放、百家争鳴」の様相である。
それはそれで結構なのだが、実は中国語の場合、教えるべき内容の規準化が明確にはされていないという大きな問題が残されている。文法事項、語彙数、文型等、編者によってまちまちである。もちろん、これは私たち中国語学、中国語教育にたずさわる者の責任であるが、早期の確立が望まれる大きな課題である。
しかし、一方で、そのような「科学的」な教育法、体系的な教授法(たとえば「コミュニカティブ・アプローチ」とか「タスク」とかいう最新の教授法)が確立されたとしても、上述のような唐通事以来の「伝統的」教授法と対抗しうるかという疑問が私にはある。
「左脳を活用して外国語をマスターする」という「植村式」に効果があるのは、「ただひたすら聞いて、そのまま繰り返す」という所にあると考えられる。同じように、中国の外国語教育が何故あそこまで「運用能力」に秀でた学習者を養成できるのかを考えると、それは「ひたすら暗記、暗誦」という方法にあるように思われる。この方式は実は、かつての中国語教育で行われた方法そのものではないか。そして、何よりも、最終的に問われるのは、そこに書かれている中国語そのものであり、教える人であろう。
4. 「実用語学」か「文化(教養)語学」か
昨今の「大学における外国語教育」の論議を見ていると、このような二者択一的な考え方が顕著であるように思う。「專門か教養か」というのも同様である。そもそもこれらは、「あれもこれも」であって、「あれかこれか」という性格のものではないはずだ。中国語教育の歴史を見てもわかるように、それらは相互に連関し合うべきものであって、どちらか一方が欠けてもそれは成立しないものである。
最近は特に、「運用能力の向上」「使える外国語」が強く叫ばれたりしている。もちろん、それはある面では肯ける点も多々あるのだが、そのことと、「文学作品講読」といったいわゆる「精読」とは本来矛盾しないものである。中国語検定試験の統計によれば、このところの中国語学習者の傾向として「会話」「ヒアリング」は飛躍的に延びているのだが、読解力がとみに低下しているという。「会話主義」「実用主義」の弊害であろう。「精読」に裏付けされた確固たる「運用能力」こそ必要なのである。
また、「会話」「運用能力」といった「実用」のみを主張する人々は、「言語とは何か」「言語の習得とはいかなるものか」を置き去りにしている。言語とはその民族の思惟方法を反映したものであり、その背景には広い意味での「文化」(思想、歴史等々)が存在する。言語だけが「実体」として一人歩きするものではないのである。言語を習得するということは、他ならぬその国の「文化」を体得することを含むものであろう。「異文化理解」というのは、まさにそういうことなのだ。
以前のような単に「読解」だけという外国語教育は批判されなければいけないが、それを「運用能力の向上」の名の下に切り捨てることもまた批判さるべきなのだと思う。
(1998.10.22.)
<付記>
本稿は一般教育センター外国語部会での報告(98.3.4)を元に修正加筆したものである。ただ現在、筆者は在外研究で外地におり、引用書などを確認できないという情況にある。従って、参考文献の不備等があるかも知れないが、その点をご了解いただきたい。
<参考文献>
六角恆廣 1994 『近代日本中国語教育史の研究』(東方書店)
安藤彦太郎 1988『中国語と近代日本』(岩波書店)
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