点数学力の序列化・競争がもたらすものーいま、教育に求められるものー
内田慶市
関西大学文学部教授
どうも、ただ今、ご紹介を頂きました内田でございます。
教育学の専門家でもない私が、こうした高いところから教育のプロに向かってお話しをさせていただくのは、今でも場違いのような気がいたしてならないのですが、一応、私も曲がりなりに30年あまり大学で教鞭をとってきておりますし、加えて教育委員を8年間やらせていただいておりますので、こうした経験から私なりに「教育」「学力」等について日頃考えておりますことをお話しさせていただこうと思います。
さて、今この国においては、いじめや不登校、それに伴う子どもたちの相次ぐ自殺、あるいは児童虐待といったように、子どもたちを取り巻く環境は最悪の状況にあります。こうした痛ましい現実に迫られて、大人社会もようやく重い腰を上げ、社会全体でこの国の教育を見直そうという気運が高まったことは「遅きに失した」とはいえ、決して悪いことではありません。今はすでになくなってはいますが、「教育再生会議」なるものも、その流れの中で組織されたものと言えるでしょう。
1. 教育再生会議の論理
ところで、その再生会議報告では「今こそ社会総がかりで教育を再生しなければなりません」と述べられています。その言やよし。しかしながら、この国の教育がこのような状況に陥ったその根本原因を深く問いただすことをせずに、いわゆる「対症療法」で乗り切ろうとしているところに問題があると私は考えています。大体、任期半ばで職務をほっぽり出して議員にうって出るなどという無責任な委員がいたくらいですから、その中身は自ずと知れたものというものであります。
たとえば、いじめや校内暴力に対しては、「暴力などの反社会的行動を繰り返す子供に対する毅然たる指導を」と述べ、その具体的な方法として、「出席停止」「体罰の範囲等の見直し」などを挙げています。早い話が「口で言って分からなければ、力で押さえ込む」やり方ですが、彼らがなぜそのような反社会的な行動を取るのか、そこが解明されない限り根本的な解決にはならないはずなのに、「力には力を」「暴力には暴力を」なのです。それは、原因を解明できない大人の責任回避と言ってもいいだろうと私は考えております。
「あいつはうざい→やっつけろ」といういじめの構図は、実は大人社会の「あいつは言うことを聞かない→目にもの見せてやろう」「あいつは敵だ→殺せ」と同じです。それはまた、「強いもの=正義」の論理そのものでもあります。アメリカのイラク戦争はその典型であり、「暴力」が生み出すものは「暴力」でしかないことは、この地球上で起っている全ての「戦争」が証明しています。「テロとの戦い」は偽善的な名目に過ぎません。自分たちの暴力を正当化しているに過ぎないのです。いずれにしても、「毅然たる指導」「厳しく対処する」ことと「力」に拠るということとは本来異質のものであるはずです。
習熟度別指導の拡充、学校選択制の導入にしても、その背後にあるものは、あくまでも「学力向上」という至上命令でしかないように思えてなりません。なぜ少人数教育や習熟度別指導が必要なのか、それらの功罪はどこにあるのかといった原則的な議論が抜け落ちてしまっています。実は、最近、日本で一つの「流行」になった感さえある「小中一貫教育」にしても同じことが言えるように思います。私の市でも、これを重点施策として推進していますが、どうも、その原理そのものまでの検討がなされているかはなはだ疑問の部分もあるのです。形だけ9年を見通した教育と言いながら、カリキュラムや教科書が、これまでの6-3制のままで、小中一貫教育の本来のメリットは生かされるのでしょうか。
いずれにしても、再生会議を貫く論理は、2点に集約されるように私は考えています。
一つは、「強者の論理」、もう一つは「あれかこれか」の論理です。
両者はもちろん相互に関連し合うものでありますが、前者は、別の言い方をすれば、「強いものが正義」=「競争原理の行き着く先」そのものであります。
そもそも、会議のメンバーがいわゆる「勝ち組」によって構成されているのですから、結論がそこに向かうのは予想されたことではありました。「いや、メンバーには元ヤンキー先生や元オール1の先生もいるじゃないか。彼らは勝ち組ではない」という人がいるかも知れません。しかしながら、元ヤンキーだから元オール1だから、同じような子どもの気持ちが分かるとは限らないのです。むしろ、「元負け組」が最もたちが悪いとさえ言えるのです。それを「売り物」として、「お前たちも頑張れば俺たちのような勝ち組になれる」と主張するに決まっているからです。「暴君の臣民は、暴君よりも暴である」と中国の文豪、魯迅は言いましたが、それは世の習いであり、彼等の目からすればワーキングプアは「怠け者、頑張らないものの代表」としか映らないのではないでしょうか。「努力すれば報われる」、「夢は必ず叶う」とは「勝利者の論理」です。むろん努力を怠ってはならないし、夢は捨ててはいけません。でも、人は全てが勝者にはなれないこともまた事実なのです。
後者(あれかこれかの論理)について言えば、たとえば、「ゆとり教育」がダメなら「学力向上をめざす教育」、「画一的教育」に対しては「個性を重んじた教育」=「習熟度別指導」=「学校選択制」、「平等・平均」に対しては「競争」を、「自由・放任」には「規律・厳罰」をというように、「あれがダメならこれ」「あれかこれか」の二者択一的な考え方に他なりません。
確かに、「学力低下」の原因の一つには「ゆとり教育」があるはずです。授業時間数が少なくなるのですから、それはある意味では当然の結果であるはずです。しかしながら、「ゆとり教育」が本来目指したものは一体何だったのか。「総合的学習」というのは何だったのか。そこから議論して、総括すべきなのに、「学力」に限定して「ゆとり教育」を全面否定するのです。昨日までは文科省の指導通りに「ゆとり」を重んじてきたのに、「あれは駄目だったので、明日からはそれは止めて学力向上に力を入れます」では、現場の先生は戸惑うばかりでしょう。
これに対して、私はとりわけ「教育」という営みにおいては、「あれかこれか」ではなくて「あれもこれも」という考え方をすべきだと思っています。
画一的な教育と個性尊重の教育はそれぞれが排他的な関係にあるのではなく、どちらの部分も必要なのです。
何人も平等に教育を受ける権利が認められるし、生徒は平等に扱われなければなりません。しかしながら、努力をしてもしなくても評価が一律、平等であれば、やる気は失せてきます。そこでは「競争」も必要不可欠なものとなってくるはずです。他と競い合うことは決して否定されるものではなく、競い合いによってお互いが共に成長するものでしょう。「競争」が「悪」なのではなく、競争の結果ばかりを重視し、勝者だけを讃えることが「悪」なのだと私は思っています。
いずれにせよ、再生会議の報告で否定されているものと、肯定されているものは、相対立する概念ではありますが、それは「あれかこれか」の関係ではなく、「あれもこれも」の関係としてとらえることが重要だと私は考えています。
2. 教育関連法案改正—教育委員会をめぐって
なにはともあれ、かかる再生会議の議論を元に、昨年の6月には教育関連法案の改正が行われました。その中の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法案」では教育委員会制度の根幹に関わる事柄にも言及されています。具体的には、以下のような内容です。
(1) 教育委員会と教育長の職務の明確化
(2) 教育委員に保護者委員を必ず含めること
(3) 自己点検評価と第三者による外部評価
(4) 市町村教育委員会への権限の委譲
(5) 地方分権が基本であるが、各教育委員会などの事務処理が法令の規定違反、又は著しく適正を欠き教育本来の目的達成を阻害していると認めるときは、文部科学大臣は是正のための勧告を行い、なお改善がみられない場合には是正の指示を行うことができることとする
地方分権が叫ばれる今日、(4)の項目の市町村教委への権限の委譲などは極めて当たり前のものであり、それは今後更に実を伴ったものとして具体化されるべきものだと思います。たとえば、都道府県教育委員会と市町村教育委員会との関係は、そのような観点から予算や人事面での抜本的な見直しが必要であろうと思われます。
しかしながら、他の項目に関しては、私は実はこれまでの教育委員会制度の中でも十分可能なものであると考えています。
改正の根拠とされる、いじめや不登校等の今のこの国の教育が抱えている諸問題に教育委員会が対応できてないのは、制度そのものの欠陥ではなく、その制度が十分に機能していないからであると私は考えています。
教育の安定性と中立性の確保、地方の独自性を保つべく生まれた教育委員会制度の根本は、教育委員による「レイマン(非専門家=素人)・コントロール」にあります。教育や行政のプロではないが、ある分野の識見を有する委員が、大局的、総合的な見地から教育の基本方針を決定する仕組みです。
また教育委員は、教育委員会を統括するものとして委員会内部にありながら、一方では、教育長を除いては非常勤であり委員会外部に属するものでもあります。だからこそ、任命者である首長からも、それを承認する議会からも、さらには、文科省からも相対的に独立した機関として存在し、一種のチェック機能も付加されるのです。地域住民の立場で、そして何よりも、子どもたちの目線で教育を考えることが求められるのであり、そのためには時には市当局や教育委員会事務局と対立することも辞さない、そのような使命を帯びたものであると私は考えています。
ところが実際には多くの教育委員会は文科省の意思伝達機関として施策を学校に伝え管理するだけの機関になっており、教育委員はもの言わぬ名誉職として「地方の名士」に成り下がり、事務局の追認機関になってしまっているのではないでしょうか。
加えて事なかれ主義や「くさいものに蓋(ふた)」の体質もみられます。これらがこの国が抱える教育の様々な問題に教育現場が対処できず、教育委員会の形骸化と批判される原因の一つだと考えているわけです。
つまりは、教育委員会が本来の機能を果たしていないことが問題なのであり、本来の機能を果たすことによって、今回の改正で唱われた点はほぼクリアーされるはずであるというのが私の基本的な考え方です。
自己点検評価や外部評価などは、「屋上屋を重ねる」ことに過ぎませんし、保護者委員に関しても、当事者が入ることは、教員の人事案件等を考えた場合、必ずしもよいとは限らないと思います。
(5)の文部大臣の教育委員会への指示・是正要求権に至っては、教育委員会制度の独自性、中立性を脅かすものであり、こうした教育への国家権力・政治の介入は教育委員会制度発足の主旨にも反するものであると考えています。
教育委員会制度については、こうした改正よりも、もっと議論されるべきことがあります。それは、教育委員会制度発足当時にはあって今はない予算案、条例案の送付権や教育委員の公選制の議論です。教育委員会が独自に様々な教育施策を打ち出しても、「先立つもの」がないのです。それらの決定権は首長に握られており、優先順位は教育施策だけでなく、他の施策との関わり合いの中で決定されていくのです。その結果、どんなに素晴らしいビジョンの下で練り上げられた施策も結局は実現できないという事態も生じるわけであり、教育予算の充実も大切ですが、こうしたことの方がより重要であると思っています。
3. 学力調査結果公表をめぐって
さて、先だって大阪府の橋下知事の全国学力調査の結果公表をめぐる数々の発言によって、大阪府下の教育委員会が揺れ動いたことは記憶に新しいところであります。
この問題に対しては、情報公開(実はこの言葉には注意が必要である。この国では「情報公開」は「ご都合主義」的に使われるきらいがある)の観点から公表すべきものは当然公表すべきですが、何をどのように公表し、それによって教育の何が解決でき、何が変わるかが先ず問われなければならないと考えています。単に平均正答率を示すだけなら、市民に「ああ、よかった」という「安堵」と「こんなんで大丈夫なの」という「不安」を与えるだけで、学力低下の根本的解決にはつながらないのです。どこが優れ、どこが足りないのかというデータの詳細な分析と課題、及び学習状況調査も併せて、情報を学校・地域・家庭が共有し今後の指導や施策に生かすべきなのです。吹田市では昨年度も今年度もこうした基本方針に基づき、点数は一切示さずに、50ページにものぼる内容のものを公開してきました。
また、この調査は学年と教科を限定したもので、子どもの学力総体を測ることはできないし、そもそも「学力とは何か」とか、「学力は測れるものか」から議論すべきものでもあると考えています。そして、その結果全てが教師の質や力量に起因するものではなく、そこには地域・経済格差、家庭環境等の教育以外の社会的要素が大きく関わっていることも明らかにすべきであると思います。苅谷剛彦氏の言われるように「学力と階層」の相関を問題にすべきなのです。とりわけ大阪においては、すでに存在しないとされる差別と関わる問題でもあるはずです。知事や一部の新聞は平均正答率を公開後、「教育課題が見えてきた」と語っていますが、一体何が見えたというのでしょうか。
さらに、何よりも重要なことは、公表するか否かの判断は各市町村教育委員会の判断に委ねられるべきだということです。当然そこには各教育委員会の教育観も示されることになるわけです。今回の橋下知事の発言で特に問題にすべきは次の2点であります。一つは地方分権とは何かという点であり、もう一つは先に述べた教育委員会制度の根幹である「レイマン・コントロール」をどう見るかであります。
学力調査の結果の公表非公表を予算配分の踏み絵とするやり方は明らかに地方分権の精神を否定することにつながるものであると考えます。都道府県が国から相対的に独立して行政を行うことが求められているように、教育委員会においても同様であるべきなのです。都道府県の教育委員会と市町村の教育委員会とは対等の立場で相対的な独立機関でなくてはならないのです。地方教育行政改正でもそのことは唱われているはずです。彼がそのような発言をした時点で、今後、彼には地方分権を語る資格など一切ないのです。如何に後にそれを取り消そうとであります。(彼はセンセーショナルに発言し、すぐに撤回する癖があるようです。)
また、そうした知事の発言に何ら自らの立場を表明しない府教育委員会と府教育委員の主体性の無さも問題です。府教育委員は「レイマン・コントロール」の意味するものをもう一度よくかみしめるべきであると思います。そうした点では、知事が「教育委員にビジョンがない」と批判するのは、あながち間違ってはいないかも知れません。そうした知事の「挑発」に全ての教育委員は発言し応えるべきなのです。それをしないなら、本当に教育委員の存在意義は失われてしまうでしょう。
4. 百ます計算の真実
さて、ここに一冊の本があります。「百ます計算の真実」という本で、著者は陰山英男氏です。「百ます計算」で名をなし、その後、立命館小学校の副校長を経て、現在、大阪府の教育委員をしておられる方です。まさに知事の目に適った教育委員として、最近、大阪の教育改革、学力向上の「イベント」ではよく登場してきています。
そもそも立命館小学校の副校長上がりというところから私なんかは肌に合わないタイプなんですが、それでも、大阪の教育を変えようと意気込んでいる人ですから、敬意を表して、その著書の一つぐらいは読んでおこうと頑張って読ませてもらいました。
読んでみますと、各論については、実は、結構、うなずける部分もあるのです。
「PISAの結果だけに目を奪われ、こういう日本の現実を知らない方も多いのではないでしょうか。こういった現実や事情をしっかり理解した上で、もう一度私たちの国を見直してみると、実は問題なのは、PISAの順位ではありません。子どもの状況です。」(はじめに、16p)
さらに、対策も的外れです。PISAの結果が前回よりも悪化したといっては、「教師の質が悪い」「ゆとり教育が悪い」と批判していますが、「競争させよう」「教師の質をなんとかしましょう」「教科書を分厚くしましょう」といった対症療法ばかりが提起されています。しっかりとした原因分析を行い、その上で「世界レベルで評価される日本人を育てるにはどうすべきか」という視点が抜け落ちているんです。当然のことながら、これでは問題は解決しません。対症療法で問題の枝葉を叩いても、次の問題が出てくるだけ。いわゆるモグラ叩きです。
(48p)
近年は、教育問題への市民の関心も高まってきています。さまざまな議論が活発に行われることは健全なことですし、教育者としても喜ばしいことです。しかし、刺激的な報道や目の前の事象に惑わされず、教育の本質を考えてほしいのです。本書がその助けになれば、幸いです。(はじめに 18p)
こうした文章を読んでいると、先に述べてきた私の内容とさほど変わらぬようにも思えてきます。
「学力」についても、たとえば、
私の考える「学力」とは、人生を強く生きていく力、苦労を乗り越えていく力、自己実現していく力です。(146p)
と述べていて真っ当なことを言われているのです。
しかしながら、一方では、
テスト学力や受験学力も立派な「生きる力」だと私は思います。そして、子どもたちにテストで高い点を取らせることは、教師として生きていく上での「生きる力」でもあります。(154p)
教師は教育のプロフェッショナルです。プロに求められるのは「結果」。「頑張っている」という「過程」ではありません。(203p)
などと述べたり、教育委員になったことに関しては、
自分で言うのもなんですが、私が大阪府教委の委員に就任したことは、日本の教育行政に一石を投じる出来事なんです。そもそも日本の教育委員会制度は「レーマンコントロール」という概念に支えられています。これは、教育現場の外にいる人間が、委員として教育の現状を客観的に分析し、あるべき姿を提言するというシステム。だから、どこの教育委員会も、委員の多くは教育現場とは直接関係のない一般人で構成されています。ところが今回、私という教育のプロが、委員になった。これは前例のない事態です。(202p)
などと、まるで「レイマン・コントロール」の意味を分かっていない、うぬぼれ以外の何ものでもないような発言をしたりしているのです。そして、恐らく、これが彼の本質なのだろうと私は思っています。先に、立命館小学校の副校長を経てと述べたところで、『肌が合わない』と言いましたのは、そういうことでもあるのです。立命館小学校は年間の学費が100万を超す学校です。学校内には大きなステージや茶室があり、子ども一人一人にコンピュータが与えられ、それで漢字の書き取り練習や社会、数学など自習もできたりするのです。そうした、まさにエリート養成、恵まれた環境にある学校の経験が一体何になると言うのでしょうか。かれの本には、「学力と階層」などについてはほとんど触れられることもないのです。
「百ます計算」の優れた点は大いに評価すべきでしょう。その基本は、恐らくは古くから方法として存在した「反復学習」というものでありましょうが、それは当然認められていい方法だと思います。それで彼が大きな成果を挙げてきたことも事実でしょう。
しかしながら、それは一つの「スキル」「技術」でしかないようにも私には思えます。スキルの体得は、教育の中では重要な一つですが、教育の方法、あるいは学力とは、それだけではないはずです。計算力、漢字の読み書き、そろばん、は確かに基礎ですが、教育で求められるのは、それだけではないのです。より求められるべきは、彼自身も言っている「自己実現の力」です。「自分の頭で考えること」こそ今の教育で求められるものではないでしょうか。そのことは、大学に入ってくる多くの若者を見ているとよく分かることです。
卒論が書けないのです。書けないのではなく、何を問題として取り上げるか、何を書くかが分からないのです。当然、「疑うこと」もありません。批判精神など生まれようもないのです。
「1+1=2」は「百ます」で分かるようになりますが、「1+1が2にならない」ことは「百ます」では教えられないのです。そして、社会では「1+1が2にならない」ことの方が実は多かったりするわけです。
私は中国語を教えていますが、外国語教育でも実は同じようなことがあるのです。
発音や文法はある程度は「百ます」的に教えないといけない部分があります。暗誦も語学力を身につけるには必要かつ有効な方法です。しかし、それだけでは、語学力を身につけたことにはならないのです。発音や文法も完璧で、語彙もそれなりに習得したとしても、それはまだ半分に過ぎません。
たとえば、Good afternoon が「こんにちは」という意味だと分かっても、まだ不十分です。Good afternoonが午前10時頃に言えるということが分からないと駄目なのです。異文化理解とはそういうことです。
百ますの実践を評価すること、また自らの実践に自信を持つことは大切なことです。しかしながら、それが万事に当てはまると考えることは傲慢になるのです。プロは全てのプロではあり得ないのです。専門家はある分野では素人でもあるし、素人もある分野では専門家たり得るのです。これが弁証法です。
5. いま教育に求められるもの-結びに代えて
昨年の「朝日新聞」(7月21日)に、知的障害のある10歳の息子を殺害した母親に懲役7年の判決が下ったという記事が掲載されました。 それにしても、軽い知的障害があるその母親の生い立ちも悲惨なものです。 母子家庭で育ち、9歳で母と死別。その後、養父母にあずけられるが虐待を受ける。 結婚して2男2女をもうけるが、夫は借金を残し失踪。 次女は1歳7ヶ月で髄膜炎で亡くなり、長女も16歳で死亡。 生活保護を受けながら知的障害のある2人の息子を育ててきたが、いじめを受ける子どもは登校拒否。 死を覚悟した母親は「死ぬ前に一度乗せてやりたい」と、新幹線で新潟への死出の旅に。 結局、そこでは死にきれずに、日比谷公園で眠りについた息子をベンチに寝かせ「翔君、ごめんなさい」と言ってナイフで刺殺したというのです。
これより少し前に朝日に掲載されていた「母よりも先に逝ってと祈りつつ三十路の息子看病の日」の歌も悲しいものです。
過労で倒れ意識のないまま寝たきりとなった息子。
その息子に対する母の本心を吐露した歌ですが、
親より先に旅立つのは何よりの不孝であったはずなのにです。
これがこの「美しい国」の実態です。
こうした弱者を救えない国が「美しい国」であるはずはありません。
「教育再生」を語る識者はこの現実をどう考えるのか。
それに答えることに出来ない議論は不毛以外のなにものでもないと思います。
「強者」「勝ち組」の論理で今のこの国の状況を変えることはできないのだと私は思っています。
国の根幹をなすものは「教育」であり、その「教育」の原点は子どもにあります(「教」と「育」という漢字そのものには「子」という構成要素が含まれています)。国の未来と希望はその子どもたちに託されているのです。誰でも自分たちの国を愛すべきです。ところが、この国の現状はどうでしょうか。将来を担う子どもたちが夢や希望をもてる「愛すべき国」の「体」を成しているでしょうか。「美しい国」の姿を見せているでしょうか。
子ども社会は大人社会を映す鏡です。テロ、児童の誘拐殺人、食品偽装、年金改ざん、これでもか、これでもかと言わんばかりに大人社会は子どもたちに悪の限りを見せつけています。まさに魯迅の言う「人が人を食う時代」(『狂人日記』)そのものなのです。しかしながら、そんな大人でも「人をまだ食っていない」未来を担う子どもたちを救う責任と義務があるのです。そのためには、先ずは大人が「人を食う」ことをやめなければなりません。「子どもを救え」(魯迅の『狂人日記』は、「人を食べたことのない子どもたちがまだいるかも知れない。子どもを救え!」と結ばれている)とはそういうことなのです。子ども達の学校への携帯の持ち込み禁止を言う前に、大人社会の携帯社会を見てみるべきです。電車に乗ったら、一斉に携帯を展げる光景は明らかに異常です。先ずは隗より始めよではないでしょうか。
制度を変えることより、何よりもせめて「恕の心=己所不欲、勿施於人(己の欲せざるところ、人に施すなかれ)」が意味することを共に考えるべきであり、人は「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)を説くべきなのだと思います。
教育は中立でなくてはならないと言われています。しかしながら、教育にたずさわるものは、もっと、もっと、「偏向」してよいのだと思います。もちろん、それは右とか左とか、そのようなイデオロギーではなく、あくまでも子どもたちの側にという意味においてであります。子どもたちと向き合い、目を見ながら、とにかく語りかける、語り合うこと。ここからしか何も始まらないように私は思っています。
まとまりのない話になりましたが、どうか、先生方の忌憚のないご批判をお願いいたします。どうも、有難うございました。
なお、本講演の内容は、内田慶市著「原則論抜きの議論は不毛—改正教育法の中身と教育委員会制度のあり方」(『季刊教育法』No159,エイデル研究所,2008.12.25)を元にしています。