1998/10/07(水)

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きのう/きょう/あした


東西と南北(3)

先ず、昨日の訂正を。「隕石」の記載は「春秋」の「毛伝」と書いたが、何を勘違いしたか、あれは当然「公羊伝」の誤り。お詫びして訂正しておきたい。
さて、この件については、「日記」の主旨と異なるので余り深入りしたくないが、氏の「雑文」が補足されているので、それにまつわることを若干記しておきたいと思う。しかし、こういう話を同じ学科内の人と出来るというのは幸せなことである。こうでなくてはいけない。
補足部分で氏が言われていることは、もっともなことだ。特に語学研究で「術語」ばかりを多用して事足りるという傾向があるとか、その用法がいつ頃から使用されたかを明確にすべきとか、言葉の背景にあるものを考える必要があるという点は私も全く同感である。私も以前の日記でこれに少し触れたことはある。(6月29日の日記)ただ、ここで一応「言語研究における私の立場」を幾つか示しておこうと思う。

  • 言語は人間の「表現」の一つであること。
  • 言語は「対象ー認識ー表現」という過程的構造をもつこと。
  • 言語の成立には「人間」の存在が不可欠であること。
  • 言語はその民族の思惟方法や歴史、文化等を背景に有すること。
  • 個別的言語にはそれぞれの特殊性があり、個別的な言語の特徴を明らかにしていくことで、また言語一般の普遍性も明らかにすること。
  • 対象となる個別的言語と真正面から向き合うこと。
  • 言語の本質とは何かを常に念頭に置くこと。
  • 資料の重要性と、一方で「山のように積み上げられた」資料だけでは問題は解決できないこと。(方法論の必要性)

さて、「下雨」の問題に戻る。
先ず、私はこの問題は「口語」とか「文言」とかということとは実は直接は関係がなく、むしろ他の「動詞+目的語」や「主語+述語」構造等と同じく、中国語(古典語から現代語を含めて)の極めて普遍的な文型の問題のように考えている。また、文法は音韻や語彙に比べて非常に「保守的」なもので、古典語から現代語まで、それほど大きな変化がないものと考える。(もちろん、修飾構造の変化や「把字句」、氏の言われる「和」の用法の拡大のようなことは当然あるのだが)従って、今回は古典語の例でこの問題を考えてみたい。
確かに、次のように「天」が着く例もある。
「天油然作雲、沛然下雨」(孟子)
しかし、この「天」は果たして「天の神様」であるのか、「天寒、大雨(天寒くして、大いに雨ふる=史記)」のような「空」とか「天気」の意味なのか、私には俄には断定しかねるところである。また、「下雨」が「天が省略されたもの」とするならば、非省略形(天下雪、天起風など)の例がごく当たり前に見られる必要があると思う。しかし、むしろない場合が多くはないだろうか?この孟子の例は「天に油然として雲おこり、沛然として雨ふれば・・」と読む方が「天、油然として雲をおこし、沛然として雨をふらす」よりも雰囲気が出てくる感じがする。
漢文訓読について私は全くの素人であるが、この「下雨」の文型は、他の「動詞+目的語」の訓読とは明らかに異なっていると思う。後者は「ヲ、ニ」といった送りがなを振るが、この文型では「衡陽下雨(衡陽ニ雨ふる)」「魯有聖人(魯ニ聖人有リ)」のように助辞を送らないように思う。「山間断人行」も同様に、「山間に人行断ゆ」と読んで「山間に人行を断つ」とは読まないだろう。平安朝の人々の中国語の力は凄いものである。もし助辞を送るとすれば主格の「ノ」だろう。「玉階生白露」「哀怨起騒人」「泥融飛燕子」も同じく「玉階に白露生じ」「哀怨に騒人の起こるなり」「泥は融けて燕子の飛び」のように読むのではないか。いずれも、現代語と同じく、「(場所+)動詞+意味上の主語」という文型である。
この文型で典型的な例が「断腸」である。これは「腸を切る」のではなくて、「腸が切れる」のではないかと考える。つまり、「行為」ではなくて、「現象」である。これこそ、まさに「存現文」の特徴ではないだろうか。
ある本によれば、論語の衛霊公篇にある「在陳絶糧」を、博士家の古点では「糧、絶えぬ」「糧、絶えたり」と読んでいるのに対し、道春点以下の江戸時代の訓点では「糧を絶つ」としているという。ここは「陳の国では、食料が切れた」という意味であり、江戸期の訓点が後退していると言えるだろう。
つまり、「存現文」は一見すると特殊な構造であるが、実は中国語が本来有している極めて一般的な文型の一つと考えられはしないかということなのである。蛇足であるが、「存現文」以外にも「巧言令色鮮矣仁」のように「多い」「少ない」という語もこの形をとる。
なお、「來了客人」は確かに「客人來了」とも言える。しかし、これはまさに、発話者の対象に対する「認識」の違い、「場」の問題である。見かけは同じ「客人」でも、内容が異なっていると私は考えている。前者は「ある客」であり、後者は「すでに話題にした客」であろう。「他來了」は言えるが「來了他」は言えないのも同じ理由である。「有朋自遠方来」の「朋」も同様である。
ところで、この問題は日本語の「が」と「は」とも一定程度の対応関係があるし、存在文は英語でも「There is ~」のように「無主句」となるなど興味深いことが沢山あるのだが、長くなるので今回はここまでにしたいと思う。

実を言うとここ10年以上文法から遠ざかっていた。時枝の「國語學史」みたいな「中国語文法学説史」をいつの日か書きたいと思ってはいるのだが、なかなか果たせないでいる。しかし、今回は文法のこと、言語のことを改めて考えてみるいい機会だったと思う。きっかけを与えて頂いた同僚に心から感謝している次第である。
最後に、今日燕京図書館で久しぶりに時枝の「國語研究法」を読んでみた。それの扉には次のような言葉が掲げられていた。

學問の成立條件として對象と研究法の必要であることは、一般に知られてゐることであるが、人即ち研究者のことは多くの場合等閑に附されてゐる。學問に於いて人を問題にするといふことは、研究者が自己自身を批判し、反省し、環境を考へ、自己の天分を計り、そこから學の對象と方法を考へることである。

【午前】【午後】

午前中はESLの授業。今日からイディオムのテキストも使用されることになったが、これが難しいのだ。辞書にも出てこないようなイディオムばかりだ。でも、英語では日常的に使用されるよう。しかも、1日に2ユニット進むから予習が大変だ。そのほか、今日は「ホームレス」に関してのディスカッション。「ある公共図書館に毎日、ホームレスがやってきて、新聞を読んだりしている。匂いもすごいが、彼は周りの人を変な目で見つめたりする。さて、あなたは、この問題をどのように解決するか」というテーマである。発想が面白い。基本的に「排除」は出来ないというのが前提としてあるようだ。
午後は昼食後、燕京で書庫を探索。いろいろな資料を探すのだが、結局それで5時まで費やしてしまった。今日は1,2階の書庫を順々に見ていったが、少々疲れた。
このところ、朝晩寒くなってきている。夜は暖房が必要なほど。ニューハンプシャー辺りの山々は紅葉の真っ盛りとか。今週の週末辺りに「紅葉狩り」と行きたいところだが、ツアーは満杯のよう。来週にするか。

【夜】

メールチェック。他。

【今日の食事】

朝食:コーンフレーク、トースト、コーヒ
晝食:寿司、チキン唐揚げ、コーンスープ
夕食:チキンと野菜の炒め、ライス、サラダ、コーヒ


3/28-5/31にしたこと

  • 「イソップ中國語飜譯小史」(仮題)初稿(約32,000字)

6/1-7/10

  • 「イソップ中国語訳の系譜」(約40,000字)

今日コピーしたもの(マイクロを含む)

  • なし。

パソコン關係

  • 特になし。

【アメリカでの連絡先】

Keiichi Uhcida
C/O Mrs.Barbara Marchese
27Daniels St,Arlington,MA 02174,USA

or

Keiichi Uchida
Department of Asian Languages and Civilizations
2 Divinity Avenue,Cambridge,MA 02138,USA


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