死刑台のメロディ
2004/03/05(金)
三月弥生の季節に入ったが、風はまだ冷たく、まさしく「春は名のみ」である。
一昨日、紀伊国屋に立ち寄ったとき、久しぶりにDVDのコーナーを眺めていたら、長年探し求めていたタイトルが目に入ってきた。「SACCO E VANZETTI」、そう「死刑台のメロディ」である。
1971年の作品だが、これを見たのは学生の頃。ジョン・バエズの歌が今も耳に残っている。
内容は20年代のレッドパージ、外国人排斥という狂気のアメリカで起きた冤罪事件。今でこそ、アナーキーとか共産主義とか古めかしい言葉がとびかう映画だが、あの頃、僕はこれを怒りをもって涙しながら、見たものである。
アメリカという国が嫌いになったのはその時からであるが、一方では、この「サッコ=バッゼッティ」の名誉回復をその後成し遂げたアメリカという国の「民主主義」にも一定程度の敬意は抱くようになった。
30年ぶりにこれを見たが、いささかも色あせてはいない。そして、ここで描かれていることは現在でも「ある」ことなのだろう。アナーキストとかコミュニストだからという理由ではなく、権力に刃向かっている、「力」や「正義」に異を唱えているという名目の下でそれが起こりうるのだ。いや、単に通説に対して「疑問」を抱いた時にすら、それが発動されることもあるのかも知れない。
そういえば、先日、オームの麻原に一審の判決が下された。それに対しては何も言うことはない。ただ、忘れてはいけないのは、あの事件でこの国のメディアが一人の無実の人を罪に陷れたという事実である。そして、そのことに口をつぐみ、ただオームのみを批判する、そういう彼らの態度に僕は我慢がならないのである。彼らにオームを批判する権利なぞ、あの時以来微塵たりともないことを知るべきである。でも、そのことを誰も言わないし、言えないような情況が作りだされている。
あらゆる面において、「批判精神」を失った世界は希望がない世界である。
そのことを僕は肝に銘じておきたいと思っている。
2004-0305