「デジタル」と「アナログ」と
2004/03/10(水)
私は周りから見れば完全なる「デジタル人間」のように見えるかも知れない。パソコン歴はもう25年余りにもなるし、毎日パソコンの前に座ってキーボードをたたいている。論文は全てワープロソフトを使うし、日記もパソコンで書いている。電子メールは1日チェックしなかったら、100通はたまってしまっている。インターネットがなければ生きていけないような身体にすらなっている。
でも、実はこれで結構「アナログ」人間でもあるのだ。年賀状の宛名書きにパソコンは絶対使わないし、万年筆とシャープペンシルの秘かな「マニア」でもあったりするのだ。夜な夜な、インターネットのオークションでビンテージのモンブランやペリカンを眺めているのだ。インクにも凝っていたりして、違った色のものを入れて楽しんだりしている。ゼブラとかシャープとかいった廉価なものは決して使わない。もし、モンブランやペリカンのものを使わない場合は、昔ながらの鉛筆や赤鉛筆である。その辺りの「こだわり」を持っているのである。ノートも普通の紙のものは使わず、「バイキングフールス」紙というものを使っている。これは市販はほとんどされていないが、ある万年筆愛好者が特別に作らせているものを分けてもらっている次第。これがない場合は、TSノートというのを代用している。これもバイキングフールスに近い紙質のものであり、これなら文房具店に置いてあるところもある。
こうしたノートと万年筆で、メモを取ったり、研究計画とか論文の構想や、講義ノート、挨拶文の草稿を書いたりしているわけであるが、特に何も書くことがなくとも、時々、万年筆のキャップを緩めて、インクの匂いを嗅ぐのである。そして、こうした時こそが、私にとっては、最もゆったりとした時の流れを感ずる時であり、まさに至福の時なのである。
ところで、今日の夕刊に大江健三郎氏の講演会の記事があり、その中で彼が「会話体主義」というものへの強い懸念を表明していることが記されている。
この大江氏のいう「会話体主義」とは、別の表現をすれば、「デジタル主義」あるいは「電子メール主義」「ワイドショー主義」と言ってもいいだろう。そして、最近の文学もしかり、身近なところでは、卒論や修論を見ていると、それが「もろ」に露呈している感じをずっと覚えていた。
大江氏は「みせかけの調和を目指し、論理性を欠く「会話体」は、思考や書き言葉にも影響を与え、政治家のあいまいな発言を見抜く力の低下につながっている」と述べているが、まさにその通りだと思う。「理性的な議論」や「論理性」の欠如である。
このような傾向は「サラダ記念日」あたりから感じてきたものであるが、私もかつて「ハーバード電脳日記」の「はじめに」で触れたことがあるように、特に電子メールが日常化してきたころから顯著になっているように思われる。
確かにコンピュータは文明の利器である。それを使わぬ手はない。多くの情報をたちどころに手に入れることも可能である。ただ、その一方で、「手書き」や昔ながらの「京大式カード方式」も今こそ主張されていいのだはないかと思っている。
「サラダ記念日」のような現代にマッチした歌もいいものである。でも、一方でそのようなものが流行する時代では「五七五七七」という定型も新鮮なものであるし、何よりも、その「定型」が基盤になければならないと思っている。字余りや字足らずが「定型」ではなくて、それはあくまでも「破格」なのである。「枕詞」や「かけことば」、係り結びのある歌をもう一度見直す時ではないのか。
袖ひじて 結びし水の こほれるを 春立つ今日の 風やとくらん
岩走る 垂水の上の さ蕨の 萌え出ずる春に なるにけるかも
このような何とも言えぬ情感を日本人は三十一文字で表現するすべを持っていることを大切にしたいものである。
私の好きな映画の「城南旧事」の最初のナレーションに「可是隨着歳月的蕩滌在我一個遠方遊子的心頭却日漸清晰起来」という部分がある。ここの「遊子」だが、たとえば、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」を口ずさんだことがある人であれば、「ああ、あれか」と気がつくものである。「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ」の「遊子」であると。授業の時にもそれを時々言うのだが、まずこの歌を知っている学生はほとんどいない。私などは、これは中学生の時に暗誦した記憶がある。
中国語の「許多」にしても、「み吉野の 象山(さきやま)の際(ま)の木末(こぬれ)には ここだもさわぐ 鳥の声かも」の中の「ここだ(許多)」だとピンと感じて欲しいものである。
「睡覚」の「覚」が目的語であることは、日本語の「ゐを寝る」を考えてみたらすぐに納得がいくはずである。
このようなことはいくらでもあるが、このような歌や古語は、中学や高校時代といった若いときに習ったものである。
何はともあれ、デジタル時代にあって、時には「万年筆」と「ノート」を使ってみることを、特に若い学生の皆さんに強くお薦めしたい。「アナログへの回帰」である。