春はあけぼの
2004/03/25(木)
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて、紫だちたる雲の、細くなたびきたる。
清少納言はこのように詠んだが、ようやく春らしくなってきたようだ。
春は別れと出会いの季節。今年も多くの卒業生を送り、また来週には新しい出会いもある。人との出会いは全くの偶然であるが、出会った以上は、その出会いを大切にしたいものだと思っている。
パレスチナへのイスラエルによる「国家テロ」については先日書いたが、僕はこの問題は「暴力の連鎖」とか、「民族の争い」「宗教の対立」とか「文明の衝突」というものでは決してないのだと考えている。まして「喧嘩両成敗」というものとも本質的に違うものとも考えている。非は明らかにイスラエルにあるのであり、大義はパレスチナにあるというのが僕の認識である。キリストの生誕の地であろうとなかろうと、そこにはパレスチナ人が住んでいたのだ。さまよえる民であるユダヤの人々の受難の歴史はもちろん認めるが、彼らが今行っていることは、彼らが受けたホロコーストと変わりはないのだ。
先日出版差し止めを受けた某週刊誌が今週はそれへの抗議特集を行っている。また、同系の週刊誌はそれへの援護射撃と新たに別のスキャンダル記事も載せている。しかし、これらの週刊誌がこれまでパレスチナへのイスラエルのテロについて一度でも触れたことはあるのだろうか?北朝鮮や中国への非難記事は多いし、少年犯罪でのプライバシーの侵害等は平気でやっておきながらである。筑紫哲也までがその特集記事に名を連ねている。やはり、日本のジャーナリズムはかつて故須田禎一が述べたように、もう隨分昔に「死んでいた」のだ。