根尾の薄墨桜

きのう/きょう/あした


2004/04/11(日)

今日は沈さん夫妻と共に、岐阜まで遠出して、以前から一度は行ってみたいと思っていた「根尾の薄墨桜」を見に行った。
継体天皇お手植え伝説のある樹齡1500年の桜で、宇野千代がその回生に尽力したというものである。
つぼみの時は淡いピンク、満開時には白色、そして散り際には独特の淡い墨色と色を変えることから「薄墨桜(淡墨桜)」と名付けられている。
朝の苦手な僕には6時起きは少々こたえたが、それでも好天にも恵まれ、久しぶりに「しなやかな」で「のびやかな」心を取り戻せたようなそんな気がした。
まさに「散り際」の「薄墨桜」だったが、「華やかさ」や「あでやかさ」はないが、何とも言えぬ「ゆかしさ」と「けだかさ」とそして「悲しさ」がそこにはあった。

散り際も なほもゆかしき 薄墨の その心をば 誰か語らむ

往く春を 惜しむ間もなき 薄墨の 色を三度と 変へて散るらむ

薄墨の 色をまとひて 身を送る そのゆかしさぞ いかではからむ

薄墨も その時を知り 色を変ゆ なぜにとがめん 人の心ぞ

それにしても、桜を見て人は何を思うのか。人はなにゆえ桜を見るのか。
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」と古の人は詠んだが、見る人の心を桜は映すものであるだろう。せめて、桜を愛でるぐらいの「ゆるやかな時」を世界の戰火の下にある人々にも与えてあげて欲しいと願わずにはおれないのだ。