満開を ついに見ぬ間の 散る桜

きのう/きょう/あした


2004/05/03(月)

今から17年前の今日、朝日新聞阪神支局襲撃事件で凶弾に倒れた記者の母親の詠んだ歌である。
事件そのものはすでに未解決のまま時效になっているが、殘された家族には時效はないのであり、僕たちだってこのような事件は忘れてはならないものなのだと思う。

それにしても、この歌を見た時、僕の思考は思わず停止したかのような、そのような衝撃を覚えたのである。
歌は詠む人の心を投影する。(もちろん歌に限らず、いわゆる「表現」というものは言語、音楽、絵画等々いずれも人の認識の反映であるが)
詠む人の心の重さが歌に表現されるのである。
この17文字に凝縮された詠み手の心はただ一つ。「無念さ」である。
そのようなぎりぎりの心の状況の中で人の心を打つ歌は生まれるのであろう。

最近、柄にもなく私も歌に挑戦したりしているが、自分の俗物加減を痛感している。
俳句であれ短歌であれ、それぞれ17文字、31文字に凝縮される表現であるが、「抽象」と「捨象」のうち、この「捨象」がなかなか出来ないのだ。
歌の根本は、「余計なものを切り取る」作業にあるように思われるが、この「切り取る」作業が悲しいかな俗物には困難なのだ。人は欲張りであり、多くのものを盛り込みたくなるものである。
ただ、よく考えてみると、これは決して歌だけでなく、私の本業の論文作成でも同様なことのように思える。

「短歌は日記に近い自己告白体の文学だ」(道浦母都子 『百年の恋』)とも言われている。
確かにその通りであって、作品を通して詠み手の全てが世界にさらされることになる。
道浦さんに僕の拙い作品を見てもらった時、彼女は「詠み手は銭湯のお客さんで、鑑賞するものはその番台に座っている人」と言ったが、まさにそういうことなのだろうと思う。
いずれにせよ、全体重、全人格をかけて表現するものでないと人の心をうつ作品にはならないのだと思う。

ところで、今日は憲法記念日。
今、この国は「改憲」の動きが急である。
ただそれがムード的に先行していることに「危うさ」を感ずるのである。

そもそも、この国の憲法の世界に誇るべきは9条にある。
でも、9条と言っても、実際にはほとんどの日本人がそれを真剣に読んだこともないのだろう。
最近は「おくにことばで9条を」という試みもなされているが、そんなことより、まともに9条と前文を読むべきなのだ。これを読んだ時、自衛隊が違憲が合憲か、とか、国際紛争地域に自衛隊を派遣してよいかどうかなど自明のことがらなのだ。原則そのものに立ち入って考えるべきなのだ。

どうも、この国は「改」という言葉に弱いらしい。
大学でも同様であるが、「改革」という言葉で全てが「よし」とされる傾向があるのだ。
でも、ちょっと「待って」である。
アラン・ポーも次のように述べていたではないか。

もしこの点について、議論しようというならばね、それは、あくまでも原則そのものに対してでなくちゃならん。そしてそのためにはね、原則の理論的根拠そのものを検討してみなくてはならぬ」(ポー「マリ・ロジェエの迷宮事件」)