「純喫茶」

きのう/きょう/あした


2004/08/16(月)

お盆休みということで1週間ばかり帰省していた。
久しぶりに何もせずにのんびりとしていたが、「何もしない」というのが僕には一番苦手である。
そして、帰省するたびに思うことが一つ。近くに「喫茶店」がないことである。
もちろん全くないわけではなく、2つ3つあることはあるのだが、一番お気に入りの店は夜7時45分に閉店なのだ。夕食後、コーヒーでも一杯と思って出かけても、もう閉まっていることが多いのである。
たかがコーヒー、されどコーヒーなのだ。

最近は家でもコーヒーは飲めるし、しかも、豆から挽いていれるという本格的なものも可能になってはいる。実際、僕も毎日、朝と夜は家でこうして飲んでいるのだが、喫茶店でのコーヒーはどこか違うのである。味は家で自分でいれた方が美味しい場合もあるのだが、それでも、「喫茶店」は「何か」が違うのである。
「喫茶店」は一つの「文化」であるとさえ僕は考えている。
いわゆる「純喫茶」というものが日本の社会から段々少なくなってきているように思うのだが、これは「文化」現象であると僕には思われる。
学生時代、ほとんど毎日、僕らは「喫茶店」に通い、一杯のコーヒーを飲みながら、「生きるとは」「社会とは」「大学とは」「革命とは」・・などと語り合ったものである。あるいは、一人で「茶店」に入り、コーヒーを飲みながら読書にふけるのである。ある時は「されど我らが日々」であったり、ある時はディーツーゲンやヘーゲル、マルクス、エンゲルスであったものである。
実は大阪でも、このような「純喫茶」というのは少なくなってきているように思う。その代わりに、「スターバックス」とか「シアトルコーヒー」とかの類のものが増えてきている。コーヒーの種類も当然、アメリカンスタイルである。
これが僕には不満なのである。カプチーノならまだしも、アメリカンではコーヒーではない。
ブレンドでもいいが、濃くのある美味しいコーヒーが飲みたいものである。
大阪だと僕がよく行くのは、梅田の「やまもと」であるが、あのようなコーヒーは最近本当に少なくなっている。
「文化の頽廃」とまでは言わないが、ゆっくり腰を落ち着けて語る場所がなくなってきていることの現れのように僕には思えるのである。
「純喫茶」のないところに「文化」はないと言うのが、僕の独り善がりの考えである。