「自然流」

きのう/きょう/あした


2004/09/20(月)

夏休みも今日でおしまい。
と言うことで、今日は少し遠出して「出石」まで出かけてきた。
10何年か前に、今の大学に来た時、組合の歓迎旅行で一度ここに来たことがあった。
その時の「出石の皿そば」の味が忘れられなかったのと、もう一つは、その時に訪れた「自然流(じねんりゅう)」という窯元がまだあるか確かめたかったのだ。
「出石そば」はあの時と同じように美味しかったし、そして、嬉しいことに「自然流」の窯元は今もそこにあった。
あの時気に入って買った変形した「水差し」(それを灰皿として買ったのだが)は今もそこでは売られていた。
出石は白磁みたいな「出石焼」が有名なのだが、この「自然流」は「出石焼」とは異なり、土の色を生かしたもので、備前や越前に似た焼き物である。
一日一つ売れるか売れないかであろうが、老夫婦で静かにその店を営んでおられるのだろう。ゆったりとした時の流れを楽しんでいるかのようである。「たおやか」な生き方と言ってもいいだろう。
ただ、ご主人はもうかなりのお歳で、失礼ながらひょっとしたら癡呆が始まっているのかと最初思ってしまったが、バイオリンやオカリナ風の楽器(リング・ピッコロ)を演奏してみてくれた。その音色が心に浸みた。
リング・ピッコロというのは、今回初めて見たものだが、陶磁器で出来たドーナツ上の筒の中に水を入れて筒を回しながら音階を作って音楽を奏でるというものである。本当にいい音がする。ご主人に奏法を教えてもらって「チューリップ」を演奏してみた。これなら僕にも出来そうということで早速購入。
それにしても、「秋老虎」で殘暑は厳しかったが、心はどこか爽やかさが残った。それは、この老夫婦の生き方が今の僕のそれと全く正反対であるからだろう。
そういえば、今日ある人から頂いたメールも僕の心をうった。

「人間、強くもあり、弱くもあります。全部は引き受けられないのは、とうぜん。そのとき、一番、大切なものは、何か、を、考え、選択することです。・・・ 何かを、捨てたとき、見えてくるものが、本来の自分のいきかた、、。」

確かに、全てを背負い込むことは、強いようで、実は弱さなのだろう。
背負い込むことは「たやすい」が、「捨てること」は勇気のいることなのだ。
さて、我は如何せん。