「インデパ的」ということ

きのう/きょう/あした


2004/12/08(水)

このページも久しぶりの更新となる。
別に書くことがなかったわけではない。むしろ、余りにも毎日書くべきことが多すぎて、書けなかったのだ。そのうち、これまでに考えたことを少しづつ述べていくが、今日はその第一弾。

2年次専修分属希望調査が終わった。中文は46名。もう少しいくと思ったが・・。英語や心理、史学地理に希望者が多いのは予想されたこと。ただ、私が最も問題にしたいのは、インデパに100人以上もの希望者がいるということ。これは、今の日本の大学の情況を象徴しているように思われる。インデパが「学問でない」とは言わない。それも、立派な学問分野・方法だし、今のニーズに最もマッチした「流行の学問」ということなのだろう。しかしながら、研究者として、あるいは、大学に携わるものとしてやはり言っておかなければいけないことがあるように思う。
このような学際的学問研究がもてはやされるのは、いいことである。現在の学問研究は単なる一つの分野だけからでは対処し得なくなっている。様々な学問領域を跨いで、様々な学問研究の成果を取り込んだ研究方法が求められなくてはならなくなっている。しかし、それは一種の「はやり」であることも一方では押さえておくべき事柄であるし、何よりも、そのような学際研究というものは、「個別的な学問研究」が背景にあって成り立つものである。「初めに学際ありき」ではないはずである。学際研究は、そのような学問研究以前に、依って立つべき「専門」があってこそ成り立つものではないか。「変わらぬもの」がそこにはなくてはならぬ。スペシャリティがあって、ユニバーサルなのだ。それがない学際研究は、「根無し草」と言ってもいいだろう。その点をおさえない学際研究は、結局は、実体のない、つかみどころのない学問となるだろう。そして、それが、今の「学生気質」に合うのかも知れない。まさに「インデパ的」学生気質と言って良いだろう。
この道はすでに敷かれていた。周到に準備されたとは言わないが、このような組織を構想した考時点で、今日の結果は予想されたことでもある。
でも、このレールを敷いた人々が、一度でも「学問の体系とは何か」を考えたことがあるのだろうか。大学や研究の古い体質、それを解体することは構わない。新しい時代には、新しい学問の体系も必要であろう。「新しい船には新しい水夫が乗り込め」ばいいのである。「新しい酒は、新しい袋に入れねばならぬ」。そのことは否定しないが、それでもなお、今の学問研究とは一朝一夕で成り立ったものではなく、長い歴史の積み重ねであることも考えるべきなのである。長い伝統の中で築きあげられた学問体系とは、それなりの価値と重さを有しているはずである。だからこそ、今日まで生き残ってきたのである。繰り返すが、そこにあぐらをかけと主張しているのではない。変革も必要である。「破らなければ立たず」これもまた真理である。しかしながら、そこまでのことを考えた上での制度改革であったのか。単なる人気集め、学生集めの手段に過ぎなかった面をなかったのか。そして更に、そのような「歴史を解体する」ことの責任を、我々全ての研究者が背負う覚悟があるかも問われなければならないだろう。
我々は大学人として、学問研究において、それらを我々以降の世代に引き継ぐ責務を有している。我々自身も学問研究の長い歴史の中の一部分である。そのことを考えた時、今の情況は果たして前の時代を受け継ぎ、自信を持って、次の時代に受け渡すものであると言えるかどうかである。インデパ的な学問の隆盛は、文学部の解体を意味している。これまでの学問研究のあり方を自ら捨て去ったと言ってもいいだろう。しかし、このことが本当に正しい選択だったのか。もちろんそれは歴史が判断することだが、その決断が誤りだった時、後生に我々はどのような申し開きをしたらいいのだろうか。
日本の大学の文学部はどこに行くのか。先日のOECDの調査結果に表れた日本の高校生の読解力低下とも、これは実は深く関わっていることを心すべきなのだと思うのである。