「品格のない言葉」
2008/03/27(木)
このページを更新するのも随分久しぶりだ。忙しさにかまけてなかなか更新できずにいたが、やはりこれだけは「備忘録」として書き留めておくことにする。
今年も年頭に当たり、地方紙に挨拶をしたためた。
これに対して地元のある一人の議員がかみついてきたのだ。その内容は以下5点である。
(1) 現行の教育基本法に異を唱えるもの。
(2) 「人を食う」というような品格のない言葉を使用した発言はいかがなものか。
(3) 同時に大人全てがあたかも悪者だと誤解をまねきかねないもの。
(4) 過去反体制的な発言を繰り返してきたのは資質が問われるもの。
(5) 最近では失言により大臣も辞任する時代であること。
これらに一つ一つ答えること自体が、相手の品格や無知(=無恥)に合わせることになるので無視したいところだが、極めて重大な発言も含まれており、やはり売られた喧嘩は買わねばならないだろう。
まず、(2)の「人を食う」という表現についてである。これは「メタファー」(隠喩)であり、それが魯迅の『狂人日記』の中の言葉であることは、中国をやっているものならば誰でも知っており、少しでも文学的素養を持ち合わせているものならば、すぐに「ピン」と来る言葉である。おそらくこの人は魯迅なんか読んだこともなく、文字通りの意味で「人を食う」を理解したのであろうが、これを無知=無恥と言わずして何であろう。また魯迅は「子供を救え」を最大のテーマとして、当時の社会を「人を食う」社会と形容したことや、その状況が今日のこの国の状況と全く変わりないことも、この人にはまるで分かってはいないのだ。そんな人に「品格」をとやかく言われたのではたまったものではない。もちろん、魯迅からの引用と断っておかなかったのは私の落ち度であり、その点が「品格に欠ける」と言われるのなら、それは甘んじて受けるつもりである。
(1)と(4)は連動しているが、一つは「教育委員(会)制度」の根本である「レイマン・コントロール」に関わる問題であり、もう一つの更に重大な点は、「自分たちの意見に批判的なもの」に対しては「反体制」というレッテルを貼り、その意見を封殺しようとする、民主主義の根幹に関わる問題である。前者については、レイマン・コントロールや教育委員(会)の独自性がどこまでの範囲であるのかは議論が必要であろう。個人的には任命権者の首長からも、それを承認する議会からも、さらには文科省からも独立したものと考えているが、これにはおそらく異論もあると思っている。後者については、時の政権や権力に批判的なものは全て「反体制」ということであり、極めてきな臭いものを感じずにはおれないのだ。彼らの言う「自由」とはそういうことなのだ。私はこれまで色んな場所で「権威に盲従しないこと」「通説を鵜呑みにしないこと」と述べてきているが、そのことがおそらくはその人には権力批判と映るのであろう。一体、彼は高等教育で何を学んできたのか。学問研究に関わらず、あらゆる領域で「批判精神」こそが必要なはずなのにである。
(3)については、反論するのも消耗だが、「全ての大人が悪者」だなんて誰も言ってやしない。しかしながら、「全ての大人には子供を救う責任がある」ことは確かなのだ。それだけである。
(5)については、受け取り方によっては一種の「恫喝」でもある。この発言がご自身の身に降りかかる危険性を含んでいることをこの人はお分かりにはならないようである。
いずれにせよ、長文の反論を用意しておいたが、結局はとりやめになった。しかし、このことを私は決して忘れない。このような人が曲がりなりにも「政治」を行っていることを。そして、そのような「政治」の中で、今も多くの子供たちの命が失われていることを。