2008年新年あいさつ  (どうかこれ以上一人の人も殺さないでください)

吹田市教育委員会委員長 内田慶市
 昨年もこの国では赤福や船場吉兆の偽装表示、銃による殺傷事件、幼い子供を巻き込んだ殺人事件と、これでもか、これでもかと言わんばかりに悲しく痛ましい事件が頻発した。まさに、「うそ」と「暴力」、そして、年金問題等に典型的な「責任放棄」で塗り固められた大人社会の現実がここにある。加えて、「母よりも先に逝ってと祈りつつ三十路の息子看護の日」という歌に象徴されるような弱者切り捨て、「強いものが正義」の格差社会が広がっているのだ。
  こうしたどうしようもない状況の下で、昨年はまた教育基本法も改正された。しかしこれにしても、そもそも教育がこのような状況に陥った根本原因を問いただすことなく、ただいじめに対しては罰則強化、学力低下に対しては、それまでの「ゆとり教育」への何らの総括もないまま、授業時間数の増加や学校選択制、教育委員会の形骸化に対しては第三者評価や教育委員への保護者の参加といった、場当たり的、対症療法に過ぎないものである。「制度」を変えても「中身」つまり「ひと」が変わらなければ本質的な部分は何も変わらないということを知るべきである。
  実はこの国の教育を根本から「再生」するには、上に述べたような大人社会を変えることから始めなければならないのだと思う。子供社会は大人社会を映す鏡である。すねに傷を持つ大人たちが、いくら立派な教育再生を叫んでも、子供たちが信じるはずはない。
  たとえば、大人たちがどんなに「事実」や「実数」に基づいて沖縄の集団自決での軍の命令の有無を論じたところで、一つの事実でもう一つの、しかし最も単純で根本的な事実(=その戦争がなければ、集団自決も南京も広島も長崎もなかったという事実)を葬り去るという事実を見抜いた時、大人たちへの信頼は失われるのだ。
  「長崎の鐘」の永井博士は、「平和の塔」という文章の中で、かつて「平和を祈る者は、1本の針をも隠し持っていてはならぬ。自分がたとい、のっぴきならぬ羽目に追いこまれたときに、自衛のためにあるにしても武器を持っていてはもう平和を祈る資格はない」と述べている。この言葉の持つ今日的意味は極めて重いものがある。この文章の中の、「平和を祈る人」を「教育再生を語る大人」に、「一本の針」と「武器」を、「うそと暴力と責任放棄」に読み替えてみればよい。「人が人を食う」ことが当たり前の世の中で、まずは大人たちが「人を食う」ことをやめねばならない。その上でまだ「人を食った」ことのない子供たちに希望を託すべきなのだ。
  どうかこれ以上一人の人も殺さないでください。
  今年こそよい年でありますように。