胡散臭さ

きのう/きょう/あした


2009/09/15(火)

ずっと、この人には胡散臭さを感じていた。
この人だけではなく、たとえば、現在、大阪府の特別顧問で、以前は東京の和田中校長の藤原某、それに、身内で申し訳ないが、白石某教授などにも同じような感覚を覚えていた。

教育再生会議のメンバーでもあったし、ときおりテレビのコメンテーターとしても登場してくる居酒屋の社長である。
なんでも、彼の経営している学校の元教諭からパワハラで訴えられたらしい。
居酒屋だけでなく学校にも首を突っ込んでいることは知らなかった。
そういえば、大阪でも教師をお店に立たせて修行させるうどん屋もあったが、どちらも同じ程度のものであろう。
ついでに言えば、今回の選挙で落ちた枚方の何とか言う女性か男性か分からぬような議員(小泉チルドレンの一人)も、確か学校を経営していたはずである。

学校教育に異業種の人を入れることはそれほど間違ったことではない。
新しい血を入れることはある場合には必要かも知れない。
学校も今や「企業努力」も求められるのだ。
しかしながら、これだけははっきりさせておく必要がある。

企業の論理と教育の論理は、本来相容れないものであるということだ。

企業の論理とは、「競争原理」「成果主義」「強いものが正義」の論理である。
「競争」はそれ自体は悪ではないが、その結果ばかり、あるいは強者だけを讃えることが悪なのだと私は考えているし、上の3つは、それぞれ連動したものである。
大学でも「成果主義」が横行している。
成果に応じて研究費が配分されるわけであり、COEなどはその典型で、実はかくいう私もその恩恵に浴している一人であることは否定しないが、このような傾向があるべき姿とは思っていない。
研究者として、持続した弛まぬ研鑽は必要だが、成果はすぐに現れるとは限らない。
教授の職にあぐらをかき、怠惰に日を送るのは批判されるべきだが、成果が現れないことを即怠け者のレッテルを貼るのは間違っている。
教育で実は最ももとめられることは、「待ち」の姿勢であると僕は思っている。
とりわけ、小中学校ではそうである。
ところが、企業の論理では、「待ち」は許されない。
学力テストの結果は常に優でなくてはならないのだ。落ちこぼれなんて構ってはいられないのである。
居酒屋の社長や、夜スペの藤原某、それらを担ぐ橋下などは、まさにこの典型である。
今回のパワハラのニュースを見て、「さもありなん」と納得できた。
これが彼らの本質だからである。
彼らの胡散臭さの「元」はここだったのだ
白石某については語るべきものもない。
彼女と同じ大学の教員としていることを恥じるだけである。