微笑ましく、心温まる、でも、どこか悲しい会話
2004/04/19(月)
今日、喫茶店で昼食後のコーヒーを飲んでいた時の、お隣の年配の三人組の会話。
A: 「いっきいちよう」って聞いたことあるな。よく言うよ。
B: いや、「いっきいちゆう」だよ。でも、俺が言っているのは「一期一会」だよ。
A: ああ、そうか。あれ「いっきいちえ」と読むんじゃないんか。
B: いや「いちごいちえ」。「人生で一度きりの出会いを大切にする」っていう意味だよ。
A: うーん。・・・・
(ここで話が変わったよう)
A: サポーターって、韓国のサポーターとか言うし、「守る」ってことやな?
B: いや、「サポート」が「守る」っていう意味なんや。
A: じゃ、「リピーター」は?
B: それは「戻る」っていう意味だ。「Come back to me 」ということやな。
C: そうそう、それは沢山意味があるもんな。
A: へえ、じゃあ、南海電車の「リピーター」ってどういう意味?
B: それも「戻る」っていう意味だけど、電車の名前だよ。
A: そうか、関空に行って戻ってくるから「リピーター」って言うんやな。
訳の分からぬ会話だったが、後で何故か何度も思い出し笑いをしてしまった。南海電車は「ラピット」のはずだが、そんなことはどうでもいいことだ。「一期一会」も聞いていると、確かにそういうことだったな、人との出会いは大切にしないといけないな、とか考えさせられる。この殺伐とした現代の世の中でも、こういうのんびりとした会話もあっていいと思うのだった。また一方で、今の日本の社会における「カタカナ」語の氾濫は、こんな年配の人でも否応なしに、それに対応せざるを得ない「悲しい」現実を作り出しているということを再認識した。
僕は決して国粋主義でもないし、民族主義者でもない。でも、日本の言葉は大切にしないといけないと思っている。「一期一会」なんて、実に良い言葉ではないか。和語や漢語は何よりも「品」がある。「フレキシブル」なんて言うより、「柔軟性」とか言った方がずっと分かりやすい。カタカナ語は英語ではない。和製英語のものが多いのであるが、ことさらそれを使いたがる輩が多い、大学の中にはこの類のものが極めて多い。その結果が「知へのパスポート」とか「知のナビィゲーター」になるのだ。これで何か分かった気分になっている。それが今の日本の大学の実態なのだ。