雜感2題
2004/03/22(月)
イスラエルがハマスの指導者を殺害した。明らかに最初から周到に用意された暗殺、狙い撃ちである。これを国家によるテロと言わずに何と言おうか。「約束された土地」と称して、そこに住んでいたパレスチナ人を隅に追いやり、力でねじ伏せて占領を続けているのは一体どこの国なのか。ナチスの迫害を受けた民だからといって、そのような不条理が許されるはずはない。これまで何人のパレスチナ人を殺してきたのか。長年この国がやってきたことからすれば、この国こそ「ならずもの国家」に他ならないはずなのに、アメリカはもちろんのこと、常にアメリカに追従する我が国の指導者もイスラエルを非難したためしはない。フセインだってここまではやってはいないのだ。このようなダブルスタンダードを取る「世界の警察」に「大義」や「正義」などあるはずはないのだ。
ところで、今日の東京からの帰りの新幹線では、2時間もつまらぬ「日本語」の会話を聞かされ続けた。
2つ前の席に座った学生風の女性と、おばさんの会話である。ただ、これが全く「会話」になってないから、耳障りで疲れるのだ。
「まじっすか?えへへ・・」「そうすっか、えへへ・・」この連続なのだ。軽薄な笑いを伴った、何たる日本語の貧困か。
そしておまけに、以前にも「ゲストブック」に書いたことのある「お疲れさまです」をこの女子学生から2度も聞かされるはめになった。
最初は、新横浜で降りる人に対して発せられた。女子学生はその人の席に座れたわけであるが、その人が降りる時に「お疲れさまです」なのだ。
2度目は、京都で降りる時に、話し込んでいたおばさんに対して「お疲れさま」なのだ。
この「お疲れさま」とは一体どういう意味なのだろうか。たぶん「お気を付けて」とか「さようなら」「有り難うございました」という感覚なのだろう。でも、やはり「お疲れさま」は絶対に「変」である。
こんな日本語が最近はびこっているのだ。こんな言葉を聞くと、どんな顔をしているのか見てみたくなる。「名は体を表す」というが、言葉はその人を映す鏡なのだ。それにしても列車の中で大きな声で話すのはやめてもらいたいものである。