「日本語教育」
2004/03/11(木)
中教審が小学校での英語教育導入の検討を始めたという。もちろん、すでに日本の多くの教育委員会では「重要課題」として「英語学習」を取り上げ、実際、課外活動や、総合学習でそれは実施されている。ただ、今回はこれを正規の授業科目として導入するということである。
しかしながら、私は委員会でもこの問題が出るたびに、「外国語=英語」という図式は見直すべきと主張してきた。日本という国の地理的情況、また、昨今の世界情勢を考えた場合、「英語」は確かに世界共通語ではあるが、同時にアジアの言葉を学ぶべきだというのが私の基本的な考え方である。
指導要領にも「外国語」であって、「英語」ではないはずだ。「英語」「ドイツ語」「フランス語」「中国語」・・本来はどの言語を授業科目として取り入れてもいいはずなのである。
ところで、このことに関して、筑紫さんが「多事争論」の中で面白いことを言っていた。「英語教育を小学校に取り入れることは個人的には贊成しないが、まあどちらでもよい。しかし、もっと大切なのは、若者から日本語が消えかかっていることだ・・」
これには私も全く同感である。そう、外国語も大切だが、それよりも何よりも「日本語」なのだ。昨日の「つれづれの記」で書いた「遊子」や「ここだ」を知らなくても許せるが、「縁の下の力持ち」と言ってもその「縁の下」が分からない人が増えているという。そして、一方では「カタカナ語」や「会話体」「メール体」の「氾濫」である。
大学の会議などでも、やたらと横文字を使う輩がいる。授業科目でも「知へのパスポート」とか「知のナビゲーター」とか何ら中身を指し得ない言葉が使われる。「名」と「実」が一致しなくなっているのである。
「名」の目的は何だったのか。荀子は以下のように述べているではないか。
異形離心交喩、異物名實玄紐、貴賤不明、同異不別。如是則志必有不喩之患、而事必有困廢之禍。故知者爲之分別制名、以指實、上以明貴賤、下以辧同異。貴賤明、同異別、如是則志無不喩之患、事無困廢之禍、此所爲有名也。(「正名篇」)
まこと、「必ずや名を正さんか」である。
昨日、「サラダ記念日」のことに少し触れたが、うちのかみさんから「ちょっと一言」があった。
「俵万智さんは、口語で歌を詠みましたが、最も五七五七七にこだわった人です。字余り、字足らずは、どうしてもその言葉を使いたいという意図がなければいけないと言っています」ということです。
でも、私の言わんとすることにはさほど影響を及ぼさないと考えている。