府下の教育委員はいつまで沈黙を続けるのか(橋下知事に教育委員は発言を)

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吹田市教育委員・関西大学教授(中国語学) 内田慶市

 全国学力調査の結果公表をめぐり、大阪府の橋下知事が過激な発言を続けている。情報公開の観点から公表すべきものは当然公表すべきであるが、何をどのように公表し、それによって教育の何が解決でき、何が変わるかが先ず問われなければならない。単に平均正答率を示すだけなら、市民に「安心」か「不安」を与えるだけで、学力低下の根本的解決にはつながらない。どこが優れ、どこが足りないのかというデータの詳細な分析と課題、及び学習状況調査も併せて、情報を学校・地域・家庭が共有し今後の指導や施策に生かすべきである。吹田市では昨年度も今年度もこうした形で公開してきた。
  また、この調査は学年と教科を限定したもので、子どもの学力総体を測ることはできない。そして、その結果全てが教師の質や力量に帰因するものではなく、そこには地域・経済格差、家庭環境等の教育以外の社会的要素が大きく関わっていることも明らかにすべきだ。
  さらに、何よりも重要なことは、公表するか否かの判断は各市町村教育委員会の判断に委ねられるべきだということだ。そこには各教育委員会の教育観も示されることになる。今回の知事の発言で特に問題にすべきは次の2点である。一つは地方分権とは何かという点であり、もう一つは教育委員会制度の根幹である「レイマン(素人)・コントロール」をどう見るかである。
  公表非公表を予算配分の踏み絵とするやり方は明らかに地方分権の精神を否定することにつながる。彼がそのような発言をした次点で、今後、地方分権を語る資格などないのだ。如何にそれを取り消そうとである。そうした知事の発言に何ら自らの立場を表明しない府教委と府教育委員の主体性の無さも問題だ。
  教育委員会制度の根本は教育や行政のプロではないが、ある分野の識見を有する委員が、総合的に基本方針を決定する仕組みにある。委員は委員会内部にありながら、一方では非常勤であって外部に属する。だからこそ任命者である首長からも、承認する議会からも、さらには文部科学省からも相対的に独立した機関として存在し、一種の外部評価機能も持つ。このことによって教育の中立性や独自性が保たれるのだ。
  現実には少なからぬ教育委員会が文科省の意思伝達・管理機関となり、教育委員はもの言わぬ名誉職として事務局の追認機関になっている事実がある。その意味で知事が「教育委員にビジョンがない」と批判するのは間違ってはいない。知事の「挑発」に今こそ全ての教育委員は応えるべきであり、それをしないのなら、教育委員は存在意義を失うのだ。
  知事の教育に対する基本的なスタンスは「強い者が正義」「できる子がいい子」であり、学力至上主義と競争原理の行き着く先そのもののように思える。加えて、橋下劇場に典型的な「声が大きい者が勝ち」という風潮を危惧するものである。