子供の命を守れー「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」
吹田市教育委員会委員長 内田慶市
昨年度も私はこの新年のご挨拶の中で、「教育」という漢字がそもそもの初めから「子供」の「子」をベースに出来上がっているということと併せながら、「子供を救う」「子供を守る」ことが、「教育」の根本であり、大人たちの責務であるということを述べました。そして今年もまたこのことを言わなくてはならないことは本当に悲しくまた残念なことです。
昨年も相次いで多くの尊い子供たちの命が失われました。大人は今も子供の命を救うことができてはいないのです。子供の命が守れずして、何が「ゆとり」教育の見直しや学力向上でしょうか。どうしてこの国の将来が語れるでしょうか。
事が起こるたびに、私たち大人は「門」を閉じたり、ゴミ箱を撤去したりという「場当たり主義」「対症療法」でしか対処しえていないのが現状であり、そのよう状況の中で「劇場的」「ムード的」な風潮が助長されているように思います。
ものごとを議論する場合、あくまでもその原則そのものに対してでなくてはなりません。そして、そのためには原則の理論的根拠そのものを検討してみなければなりません。(アラン・ポー『マリ・ロジェエの迷宮事件』より)
ところが、実際はどうでしょうか。「ご都合主義」「断章取義」がこの世には蔓延しています。
たとえば、「義を為すは、毀(そしり)を避け誉れに就(つ)くに非ず」(墨子)と言ったとき、墨子の根本思想である「非攻」「兼愛」は忘れ去ってしまっています。「罪を憎みて人を憎まず」を語るとき、一方で「過(あやま)ちて改めざるこれを過ちという」「過ちては則ち改むるに、はばかることなかれ」(論語)を捨て去ってしまっています。これではまさに「信なくば立たず」であって、子供が大人を信頼できるはずはないように思われます。
ところで、世界の地域紛争、宗教対立の中で語り古されたことばが、「文明の衝突」でした。これは地域紛争や宗教対立は避けられないものという一種の悲観主義的な見方ですが、それを主張したところで何の問題の解決にはなりません。それに対して、最近ハーバード大学の杜維明氏は「文明の対話」を提示し、その実現のために「恕の道」を原則とすべきだと主張しています。
孔子は弟子の子貢に「一言で生涯行うべきものは何か(一言にして以て終身之を行うべき者ありや)」と聞かれたとき、「それは恕である(それ恕か)」と答え、さらに「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」と付け加えたのです。それが孔子の根本思想である「仁」の本質です。
「恕」とはまさに「他人への思いやり」ということに他なりません。
キリストも「己の欲するところ、人に施せ」と言っていますが、同じ事を述べているようで、実は大きな違いがあるように思われます。これが東洋と西洋の倫理観の違いなのかも知れませんが、ただし、ユダヤ教では孔子と同じことが述べられています。
いずれにせよ、私たち人類に残された最後の希望が「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」なのかも知れません。
人は本来誰だって、「井戸に落ちた子供を見たなら、ハッとして助けたい」と思う心をもっているはずです。つまり「惻隠の心」(孟子)ですが、今のこのどうしようもなくなっている世の中にあっても、そのような人としての心だけはまだ残っていると私は信じたいと思います。 杜維明氏はまた「対話」の最低条件とは「先ずは相手の存在を無条件に承認すること」だとも言っています。すなわち「相手の違い」を認めるということであり、まさに、「みんな違って、みんないい」ということに尽きるでしょう。
今年こそ、子供たちの命が救われるように、私たち大人は今何をなすべきか、そのことを考えていきたいと思っています。
よい年でありますように。