2000/12/4

久しぶりに書いてみる。
最近の世の中「勘違い」している人が大勢いる。自分が芸能人なのに、長く議員におさまって「政治家」だと勘違いしている人。同じく、レスリングの選手だったのに「肉体派政治家」と勘違いしてコップの水をまく人。「僞物」が「本物」を気取るとき、化けの皮が剥がれることを知らない輩が多いのである。芸能人が政治家になることは悪いことではない。本来、政治を目指して政治家になった人と、どのみち、大した差異はないからである。しかし、「僞物」は「僞物」のままでいるべきなのである。存在理由はそこにしかない。
さて、「陳春生『東方伊朔』研究序説」という論文を読んだ感想である。

>『東方伊朔』はその魅力ある書名にもかかわらず、従来ほとんど等閑視されている。
>同書の本格的な研究は皆無に等しいと考えてよかろう。

ここまで書くならば、もう少し丹念に先行の成果を調査してからにして欲しいものである。拙稿を見てないからというのではない。「調査なくして、発言権なし」は毛沢東の言であるが、これは研究者として最低限のなすべきことである。
たとえば、英文序を書いた「呉板橋(Woodbridge)」についても同様である。

>一方、呉板橋については、王立新『美国伝教士与晩清中国近代化』の「英漢姓名訳名対照表」にもその名は見えず・・

これなど論外である。そのような入門書・概説書だけ見て、こと足れるというのは困ったものである。せめて、「近代来華外国人名辞典」ぐらいは見てから物を言うべきである。
もちろん、著者は確かにこの本に関しては、これまでのものより詳しく論じてはいる。その点は評価するが、問題はそれ以前のことである。
しかも、この研究が「科研費」に拠るというから、世の科研費の実態というものも窺え知れるというものである。
少々(いや隨分)厳しいことを述べたが、たまには私も怒るのだ。