たらちねの・・
2004/02/24(火)
母がなくなってもう30年以上が経つ。
時々、何かの拍子で母のことを思い出すこともあるが、その顔はどうしても思い浮かばない。冷たい人間といわれるかも知れないが、そんなものなのだろう。去る者は日に以て疎しとはいうが、人とは所詮、非情、無情なものである。
たらちねの 母の面影たずぬれど
思い浮かばぬ 歳月悲し
そういえば、亡くなる年の今頃は、少し病状が好転したような頃であった。
すでに腹水がたまっていたから、医者は一時的なものと言ってはいたが、それでも「ひょっとして」と淡い希望も抱いたものである。
亡くなる前に人は何故かある時期、ある期間良くなったように見える時があるようだ。おそらく、その間に、しかるべき人々との別れをする時間をくれるのだと思う。
それから約一ヶ月後、母は逝ってしまった。
好きな人と 添い遂げよと
言い残し 逝きし母の 想ひをかみしむ
人から見ると私は隨分と運がよく、世渡り上手な人間に見えるはずである。
確かに、就職するまでストレート。ダブりがないのだ。でも、実のところ、私にも結構挫折はあるのである。しかもそれは早くにやってきた。高校受験である。
中学までその高校に行くのが当たり前と自分も周りも思っていたはずである。ところが、合格発表を見に行った両親から連絡がない。おかしいなと姉で家で待っていると、そのうち両親が帰ってきた。しかも悲しい顔をしながらである。
本人はそれほどでもなかったが、周りは大変だった。中学ではその日職員会議まで開かれ、高校に問い合わせもしたという。その年はうちの中学では同じ高校に失敗したのが他にも何人かいたが、いずれも番狂わせというやつだったから、中学は慌てたのである。隣の県の某国立大学附属高校への進学の可能性まで学校は探ったようである。でも、結局は私学に通うことになった。
今でこそ、その私学は県内でも有数の進学校になっているが、当時は、いわゆる「札付きの」高校であった。母には申し訳ないことをしたと今でも思っている。
家に帰る時は制帽は脱ぐようにしていたし、店に客がいるときは、裏口から入ったものである。
その高校を落ちたものだけで特進クラスが編成されており、「予備校と思え」と1年から毎日補習があった。文化祭も体育祭も、クラブ活動も禁止されていた。実につまらない3年間であった。
ただ、僕は委員長をしていたが、どうも勉強ばかりする奴とは余り付き合いたくなかった。これは小さいときからそうなのだが、ガリ勉タイプは僕の性分には合わないのだ。僕が一緒にいるのは、いつも、制帽のつばを小さく切って付け替えたり、ズボンの裾を広げたりするような、いわゆる「つっぱり」組だった。でも、そういう友こそ、心根は優しかったのである。
大学進学も私学はもちろん、県外も経済的には無理があった。それでも隣の県ならばということで、金沢を受験した。試験はいつものように時間前に早くに片づけて、残りの時間は自己採点である。(この習性は小学時代からのようである)でも、これも実は不合格だった。
この時も、両親に「問題ないから発表を見に行って」と頼んでおきながら、またまた期待を裏切ったのである。そんなわけで、仕方なく最後に地元の大学を受験し、そこに通うことになったのだ。
しかしながら、今から思えば、福井に行ったことで、中国語とも出会い、今の女房とも巡り逢えたのである。
人の人生、運命なんて言うのは、わからないものである。ただ、「道は歩いてできるもの」ということだけは確かなもののようである。
2004-0224