「生きる」ということ

きのう/きょう/あした


2004/02/25(水)

生まれてきてくれて有り難う

生後5ヶ月で小児ガンと診断され、それから1歳になる現在まで、ガンと闘っている子のお母さんの言葉である。
久米宏の「ガン戦争」を見ていたが、「生きる」というのはどういうことなのか、をこの子達から改めて教えてもらったような気がしている。

1歳にも満たない子供が、脊髄への抗ガン剤の注射に耐えている。
10歳の子供が、白血病と闘いながらも、「またサッカーをやりたい」という希望を抱いて力強く生きている。
同じく10歳の女の子は、生まれてすぐに小児ガンにかかり、それを克服したかと思うと、その時の抗ガン剤の副作用で重い心臓病にかかっている。脳梗塞まで引き起こして右半身は不自由で、言葉もすらすらとはいかない状態である。そして「何故わたしだけが?」「私何かしたの?」という問いかけに人はただ涙するしかないのである。それでも、彼女は精一杯生きている。

このような懸命に「生きる」姿を見ていると、この世の中で、自分だけが不幸と思ったり、取るに足りない理由で挫折したり、悩んだりする多くの人の生き方が実に無意味に思えてくる。
明日や将来は誰にも約束されてはいないけれど、それども、この子達よりは、「明日がある」という希望の確立は高いのである。「明日」があるから、「今」を生きれないのかも知れない。
そして何よりも、一方では、五体満足で生まれてきた子供を殺す親がいるという現実に悲しみを覚えるのだ。彼や彼女たちに生まれてきた罪はない。人はみなそのように生まれてくるものなのだ。
戦争も然り。そのように生まれてきた人を殺す権利なんて誰にもないのである。
その代わり、人はこの世に生まれ出てきたからには、誰でも「のどがかわいたり」「木もれ陽をまぶしく」思ったり、「すべての美しいものに出会ったり」(谷川俊太郎「生きる」より)といった、ごく当たり前のことをしたり、感じたりする権利を持っているのだと思う。

「汝殺すなかれ」である。