「究極」のケータイ??

きのう/きょう/あした


2004/03/18(木)

 このようなキャッチフレーズで今、FOMA900iの売り込みが盛んである。確かに、動画メールやゲーム等々、まさに次世代携帯の旗手としてモバイルパソコン並の機能を装備し、「ケータイ」もここまで来たかと「唸らされる」側面は備えている。
 しかし、これが「究極」とは言わせない。パソコンも同じなのだが、日本で作られるものは、どうしてこうも「独創性」「創造性」に乏しいのか。AUにしても同様だ。僕がこういうことを言うのは、ひとえにその「デザイン」においてである。
 「究極」か何かは知らぬが、なぜ日本のケータイはどれもこれもワンパターンなのだろうか?FOMAでもAUでもJ-Phoneでも皆主流は「折りたたみ式」ではないか。こんなものが「究極」のケータイであろうはずがない。唯一例外はAUの「Info Bar」である。これが出たときに僕は即座にそれまで使っていたDocomoの505iを解約した。まだ2ヶ月しか使っていなかった新機種であるのにである。
 Info BarのデザインはMacintoshのそれに通じるものがある。シンプルでありながら、どこにもない形。一目見て、「それ」と分かるデザイン。ケータイと感じさせないケータイ。
 Macintoshもコンピュータを無味乾燥な機械の「箱」から解放した。SE30に始まり、PowerBook、iMac、Cube・・。どの機種も他のWindowsマシンには見られない「独創性」「斬新性」を有している。「個性」の固まりである。なによりも「夢」がある。機能などはこの時代、結局はどれだって同じようなもの、だったらそれ以外の部分で勝負すべきなのだ。
 安藤忠雄や磯崎新の建築が人を魅了するのはまさにその点である。誰が作っても同じようなものに何の魅力があろうか。
 残念なことに素晴らしいケータイを世に送り出したAUも、そのInfo Barを主力機種とは見なしていない。単なる、「目新しさ」に留めてしまっている。これがAUの限界と言えるだろう。
 いずれにせよ、人はあくなき理想を追い求めることが、生きる原動力になるはずだし、見果てぬ「夢」を追い続けることが、若さの証なのだと思っている。

   今夜は中文の謝恩会。毎年必ずやってくる別れの季節であるが、出会えた喜びを別れの悲しさに変え、みんなの前途に幸多からんことを祈るだけである。お元気で!

2004-0318