「正義」の対テロ戦争は、15歳の少女に15発の銃弾を浴びせることか?
2004/10/21(木)
イスラエル占領下のガザ地区で先日、大規模な掃討作戦の中、一人の少女がイスラエルの兵士によって射殺されたという。
これが、アメリカやその「同盟国」のいう「正義」の戦争の実態なのである。
すでに、死亡していた少女に対して更に至近距離から自動小銃を連射することが、彼らの「正義」の戦いなのである。
このようなことが、恐らくパレスチナでは何十年も日常茶飯事のこととして繰り返されてきたのであろう。
そして、犠牲になるのは、いつも、無抵抗な女性や子供達だった。
この事件は一つの象徴的な事実に過ぎないが、このような事実の前では、彼らがどれほど、テロの殘忍さや非道さを訴えたところで、全て、彼ら自身にその言葉は跳ね返ってくるはずなのだ。
魯迅は「子供を救え」と言った。
しかしながら、最近のこの国の情況は、そうではない。
親による幼児虐待、子供虐待が横行している。実の母親が中学生の娘に売春をさせる世の中である。
先日、森村誠一の新作『人間の証明 21st century』を読み終えたが、その中の金子みすずの自殺の動機の記述に僕は思わず、最近の「情況」を重ね合わせて考えてしまった。
金子みすずは、満26際の若さでこの世を去ったが、その理由は、別れた夫から三歳の娘を守るためだったという。前夫に娘を渡せば、どんな育て方をされるかわからない。その要求を拒絶するために自らの命を絶ったのだ。これが、母親の姿なのだ。
この小説には、金子みすずの以下の歌も使われている。
私が両手をひろげても、
お空はちつとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすつても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがつて、みんないい。
人は皆同じという考え方も当然あるが、この詩で歌われているように、「人は誰も違っている」ことの認識から始めるべきではないのか。
「違い」をお互いが認識ずることから、共通の認識も生まれてくるような気がする。
まさに、「みんなちがつて、みんないい」のである。