「学問への道」
2004/12/19(日)
昨日は久しぶりに「LACE(LAnguage,Cognition & Expression=言語・認識・表現)」研究会に出席した。
「LACE」研究会と言っても分からないだろうが、時枝誠記の言語過程説と三浦つとむの言語と認識の理論の批判的継承と発展をその主旨として1996年に設立された研究会である。会員は、言語学研究者以外に、自然言語処理、機械翻訳、数学者、会社員等々様々である。
この研究会の一つの成果として、この度、『言語過程説の探求第一巻』(明石書店)が刊行された。全三巻の予定であるが、私も第二巻に執筆の予定である。
明石書店は社長が三浦つとむと昔から親交があるということで、以前にも『胸中にあり火の柱ー三浦つとむの遺したもの』を出版している。
昨日の出版記念を兼ねた研究会には、元北大の亀井秀雄氏の講演もあった。亀井さんは今は小樽文学館の館長をしておられるが、私も昔、亀井さんの『現代の表現思想』なんかを読んで、アカデミックな世界でも三浦つとむを評価している人がいると感心したものである。
今回の講演では、「三浦つとむの言語理論がアメリカでどのように評価されているか」という内容だったが、酒井直樹の三浦理論の紹介などを取り上げていた。酒井直樹はモスト・モダンやポスト・構造主義で結構影響を与えている人であるが、彼の三浦理論の取り上げ方は不十分であり、曲解している部分も多いようである。浅田彰や柄谷行人などとも通ずるものである。亀井さんが、酒井直樹の言語観は「スターリンの言語論」と類似していると述べていたが、所詮、その程度のものなのだろう。亀井さんが、この研究会で是非とも、三浦つとむの、欲望論、意志論、規範論、鏡像論、言語論など多岐にわたる理論を体系化し、日本の誇る思想家としての全体像を明らかにして欲しいと言っていたが、それは確かに僕たちの任務となるであろう。
それにしても、三浦さんの奧さんの横須賀さんも言っておられたが、三浦の理論を受け継いで頑張っている若い人たちがいることを僕も嬉しく思った。三浦さんは、スターリン批判などで共産党を除名され、出版活動さえも妨害されていた。もちろん、右からの妨害は当然だった。時枝さんは、「私の言語論を擁護したせいで、三浦さんは迫害されている」といつも言っていたそうだが、そもそも、「全てを疑え」をその根本的な生き方とした三浦さんが、そのような立場におかれたことは自分でも本望であったはずである。でも、今も、彼の理論を批判的に継承・発展させようと「研鑽」する人々がいる。言語学だけでなく、時代の先端をいく機械翻訳でも、三浦理論でしか機械翻訳は不可能とする人々がいる。三浦さんの理論は確実に受け継がれているのである。しかも、何よりも三浦さんも喜んでいることは、彼らが、「三浦理論からも疑う」という姿勢を持っていることであると思う。これこそが、三浦さんが言いたかったことなのだと僕は思っている。
三浦さんや、僕を三浦さんに会わせてくれた故宮下真二がいつも言っていたのが、このことである。
「どんな分野の人であろうと、通説を鵜呑みにせず、格闘している人の姿がもっとも励みになる」
そして、「現象的な独学」でなく「本質的な独学」をせよということである。
三浦つとむを師と仰ぐ南郷継正や、『言語過程説の研究』をものにした川島正平氏などもその典型である。アカデミックな世界にいなくとも、研鑽を積み重ねれば、それは可能となるのである。
研究会終了後、そこに参加しておられた一人の老人が「内田先生、これを読んで下さい」とある文章を渡してくれた。「三浦つとむの言語表現内容とは何か」と題されたその文章は、三浦つとむの「意味論」の欠陥を指摘し、自分の論を展開したものだった。聞けば、以前、小学校の教員をしていて、現在はすでに定年退職をしており、それでも、ずっとこのようなことを考えて文章を書いてきたとのこと。帰りの新幹線の中で読ませてもらったが、名のある国語学者や言語学者のものより数倍も面白いものだった。「独学」とはこのことなのだ。
昨日のような研究会に、いつかうちの院生諸君にも参加して欲しいものである。そこで、「学問とは何か」「生きるとはどういうことか」を感じ取って欲しいと願っている。
ところで、南郷継正氏の編集にかかる『学城』(現代社)という雑誌が創刊された。吉本隆明の『試行』が廃刊になって久しいが、新たな骨のある雑誌が世に出たことは本当に嬉しいことである。第一号は「学問への道」となっている。これも、若い人には是非読んでもらいたいものである。ただし、少々(いや相当)手強い内容だから、心して読むべきである。
私も学生時代に戻ったつもりで、もう一度、このあたりから勉強し直すつもりでいる。研鑽あるのみである。