「タカダワタル的」=「優しい時間」

きのう/きょう/あした


2005/04/16(土)

高田渡が亡くなった。56歳。今の世の中では若すぎる死である。
ただ、今の若い人、いや僕と同世代でも、マニアックでなければ、「高田渡」と言っても、ピンとこないかも知れない。
でも、僕なんかにしたら、彼は岡林とは対極の場所にいながら、共に、あの時代を撃った人なのである。
「自衛隊に入ろう」や「自転車に乗って」なんかもいいが、僕が好きなのはやはり、山之口獏の詩に曲をつけた「生活の柄」とか、マリー・ローランサン原詩、堀口大学訳詩の「鎮痛剤」、そして、昨年のコンサートで聴いて妙に耳に残っているのが「ブラザー軒」でる。

歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところかまわず寝たのです
歩き疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ
寝たのですが
眠れないのです
このごろは眠れない
陸を敷いては眠れない
夜空の下では眠れない
・・・・(生活の柄)

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です
・・・
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です
・・・・
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です(鎮痛剤)

昨年はなぜか、この高田渡ブームが起こり、BSでも時々彼のドキュメントが放映されていたし、「タカダワタル的」というドキュメント映画まで作られた。大阪での公開初日には高田渡も若い監督と共にかけつけてくれていた。(昨年のコンサートや映画のことは、以前のこの「つれづれの記」でも書いている。→2004.6.42004.6.5
酒が好きで、コンサートでも時々、本当に寝てしまうのだが、起きるのをじっと待っている聴衆。何とも不思議な光景だが、この「ゆったりとした時の流れ」をそこで皆が共有するのである。
きっと、昨日も北海道のコンサートでそんな感じで眠るように死んでいったのだろうと思う。

この何年か、僕もまさに殺人的な忙しさであるが、そんな中でも、「タカダワタル的」時間の過ごし方が出来たらと思ってはいる。実際には「かなわぬ夢」なのであるが、それでも、気持ちだけはそうありたいものだと願っている。
先月、毎週楽しみに見ていた「優しい時間」が終わってしまった。せめて「優しい時間」を持ちたいと、「森の時計」の中で使われていた手挽きミルと、ドリップカップを探し求めていたが、先日、ようやく手に入れることができた(ミルはオークションで市販価格の2倍で入手)。
このドラマが終わってから、特に、ミルは全国の販売店から全てなくなってしまっている。今、注文しても入荷するのは何ヶ月先になるそうな。結局、みな、「優しい時間」を求めているということなのかも知れない。

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