「被爆マリア像が語るもの」

きのう/きょう/あした


2005/08/09(火)

今年も長崎に行ってきた。被爆60周年ということで今年は広島に行くつもりだったが、8月6日は院生との合宿があって抜けられず今年も長崎にした。
その日はやはり暑かった。60年前のその日はもっと熱かっただろう。式典では「献水」の儀式が行われるが、「水を、水を」と求めた人に「平和の泉」をはじめとする長崎各地から集められた水を献げるのだ。せめて今この一杯の水でこの人々ののどの渇きが潤うことを願うだけである。
長崎市長の平和宣言は格調の高いものだった。ただ、「憲法の平和理念を守る」という箇所に関しては、「憲法9条」まで盛り込むことが出来なかったという。「いま色んな議論のあるところ」だからというが、戦争放棄をなぜ語れないのか。それはこの地球上で唯一の被爆国としての義務であり、権利ではないのか。それが語れないところに、今のこの国の状況があるのだと思う。靖国や教科書問題だけでなく、もっと根本的なところにまでそれは及んでいるように思う。平和公園から近いところにある、「如己堂」(永井隆記念館)にある言葉をかみしめるべきである。

平和を祈る者は、1本の針をも隱し持っていてはならぬ。自分がたとい、のっぴきならぬ羽目に追いこまれたときに、自衞のためにあるにしても武器を持っていてはもう平和を祈る資格はない(平和の塔)

ところで、式典はこの国の首相が登場したところで席を立ち、浦上天主堂に向かった。その日、「被爆マリア像」が60年ぶりに公開されることを聞き及んでいたからである。到着すると、マリア像を安置する小聖堂の完成ミサが行われていたが、ミサが終了後、初めてこのマリア像を見ることが出来た。 燒け焦げた頬、額は割け、両目も溶けて空洞になっている。でも、その痛ましい像からは「悲しさ」はあっても「憎しみ」の感情は全く伝わってこないのだ。「憎しみからは何も生まれてはこない」被爆マリア像が語っているのはそれなのだと思う。もちろん、それに対して「人類愛」を言う者ではない。それは僕の心にはいつも『我が解体』(高橋和巳)の箱に記された「一つのメッセージ」があるからである。

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雨が地の糧であるように闘いが心の糧であるのではない
何びとも命の哀しみに言葉で答えてはならない
行路病者に一杯の水を与えようとも
兄弟を「人類愛」で買うことをやめよ
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でも、キリストの「主よ許したまえ、彼らには自分が何をなしているかがわからないのです」には肯定できる部分があるかも知れないとは思っている。
式典の前日、平和の泉の前では、翌日BSで放送される「2005 平和巡礼」のリハーサルが行われており、一組の高校生デュオが「願い」という曲を歌っていた。爆心地で行われた各宗教団体の慰霊祭にはイスラエルの青年とパレスチナの青年が共に献花を行っていた。また、式典当日も多くの若者が参加していた。ここに僕は一つの希望を見いだしたいと思っている。小難しい議論や理屈ではなく、そこにあるのは人が本来持っているはずの心であると信じたいからである。