「目は口ほどに物を言い」ー「ものの見方・考え方と言語研究」

きのう/きょう/あした


2006/05/20(日)

今日の中国語近世語学会の研究総会(愛知大学)は参加者はそれほど多くはなかったが、結構、中身の濃い発表だった。西山さんのプレマーレの文法論の論考も随分こなれてきたし、塩山君の聖書研究もぼちぼち形が見えてきたように思う。筑波の伊原さんの「結果補語”V見”と”V到”の文法機能の交差と交代」も先秦文から現代語までの通時的な変遷を辿りながら、それに独自の観点を加えてその本質に逼る興味深い論考で、收穫が大きかった。研究とはこうでなくてはならない。聞く者に「わくわく」するような気持ちを覚えさせなければならないのだ。
「V見」については、これまで「知覚の認識を示す」とか「感覚の出現を現す」とか、「視覚・聴覚・嗅覚に入ってくる」とかいう解釈がなされてきたが、そのような通説を鵜呑みにせず、古代中国語からその用例を丹念に調べ上げて、その語義から本質をつかもうとしたものである。

・見」には上古漢語からすでに「見える」と「見る」の二つの機能があった。
・「聽見」の「見」には本来的に「聞こえる」の意味が備わっていた。つまり「聴見」は「聴く+見える」ではなくて「聴く+聞こえる」である。
・「聞」にはもともと「音を聞く」と「匂いを感じる」の意味があった。
・「摸見」は近世漢語では「触った結果、目で認識する」であり、現代漢語では「触った結果、肌で認識する」である。
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このようなことが述べられたが、その立論には私も十分納得できるものであったと思う。ただ、ただしである。これとは全く別の発想も考えられていいのではないかと思っている。
「目は物を見るもの」「耳は音を聴くもの」「鼻は匂いを嗅ぐもの」「口は物を言うもの」「手は物を触るもの」・・。これは、どの民族でも同じであるということが前提となっている。しかし、その前提は果たして正しいのかという疑問である。
「目は口ほどに物を言い」という言葉がある。これは確かに「譬喩」ではあるが、果たして単なる「譬喩」であるのかということも考えられていいのではないかと思うのだ。「目は物を言う」という「考え方」が存在してもいいのではないか。同様に、「耳で見る(聴見)」「手で見る(摸見)」「耳で嗅ぐ(聞見)」という考え方が中国人の発想にあり得ないかということである。「聴見」の「見」に「聞こえる」という意味が備わっていると考えるのは、今の私たちの発想や分析であって、中国人はそうではなかったのではないか。「耳には本来的に見るという機能が備わっている」という発想があっても不思議ではないからである。
もちろん、このような見方はもはや「言語学的」な分析ではなくなっているのかも知れないが、「民族の思惟方式は言語に反映される」という立場に立てば、これもまた言語学的な分析として認められてもいいように思われる。「味と匂い」を区別しないこと、「音を聞く」とも言うし「香りを聞く」という言葉が残っていることも、そのような見方を決して否定できないことを示しているように思うのである。