ミスを認めること

きのう/きょう/あした


2006/12/25(月)

義母の突然の死からようやく1週間が過ぎた。
あっという間の1週間だった。この間、慣れない田舎の「風習」や「しきたり」に従って、通夜と葬儀を何とかこなした。
そもそも、このような葬儀の方法には抵抗があって、自分の場合は絶対にこのような形はとらぬように遺言を残すつもりだが、今回は致し方ない。
焼香順がどうの、骨あげがどうの、納骨がどうの、香典返しがどうの、お逮夜がどうの・・・。こんなのは、実は亡くなった人への供養とかとは無縁のものであるはずである。何度、「長老」とぶつかったことか。
それでも、何とか初七日も切り抜けた。
大学には「義母」として届けていたので、弔電等は皆無、まあ、教授会で挨拶する必要がないから助かるというものだ。本来は、いわゆる「養子」であるから、実母扱いとすべきだったようだが・・。

ところで、今回の母の死には大きな疑問が残っている。
前日まで元気だった人が突然倒れて、その後、いったん意識を回復しながら、その数時間後に亡くなったのである。そういうことも、この世にはよくあることではあるだろう。
ただ、急患を扱った医者は本当に何らかの「治療」を施したかである。
最初、脳梗塞を疑ってCTを行ったが、異常なし。そこで、血液検査を行ったそうな。データを見せてもらったが、ほとんど異常な数値である。これに対して、「どういうことか分からない」「土曜日だから月曜日にもう一度検査する」と言っておしまい。そして、夜半過ぎに「あっけなく」逝ってしまったのである。
死因は急性心不全となったが、この医者は心臓の専門ではなかった。
なにゆえ、専門の医師に相談したり、心臓専門の病院に搬送しなかったのか。
医療ミスとして訴えるつもりは毛頭無い、しかしながら、せめて「精一杯手を尽くした」とか「申し訳ない」の一言があって当然だろう。
それが全くなく「どうもよく分からない」では死んだものも浮かばれぬというものだ。

「あなたの判断ミスですね」という私の問いかけに、その医師はただ黙ったままだった。
先週、「Dr.コトー」の最終回を見ていた。そこで、語られた言葉が今も心に残っている。

「医者って何だろう」

医者だって人である。絶対はないのだ。ミスもあるだろう。
しかし問題は「ミス」を犯したことではないのだ。そのミスを責めるのではないのだ。犯した「ミス」を認めようとしないことを責めるのだ。
ひたすら、「何とか表沙汰にならぬよう」にとミスを隠蔽する体質なのだ。
もちろん、これは医者に限ったことではない。
教師だってそうだし、人として、そうあるべきなのだ。
そんなことを考えたりしている。