「命」の授業ー延地先生さようなら

きのう/きょう/あした


2008/04/04(金)
延地前教育長が4月1日旅立たれ、2日にお通夜が、3日には「お別れ会」が開かれた。
先週の火曜日に最後のお見舞いに伺った時は、先生にしては珍しく「先生、しんどいんです」と弱音を吐かれて、おなかの部分を指さされた。腹水がたまって本当にしんどいのだと思った。そして、別れ際に「先生、もう少し頑張って!」と手を握った時も、握り返すその力にかつての力はなかった。それから1週間で先生は逝ってしまわれたのだ。
本当に気丈な先生だった。女一人で62歳の生涯を生き切ったのだ。小さいからだで、どこからそのエネルギーが沸いてくるのか不思議だった。
昨年の11月の定例教育委員会で、先生が副腎皮質ガンで、復帰は難しいという話を事務局からお聞きしたとき、私は「是非、先生に竹見台中で、最後の授業をしてもらいましょう」と提案した。そして、その後、教育委員全員でその頃先生が泊まっておられたホテルに見舞い、「先生、どうですか、授業をしませんか」と切り出すと、「ええ、是非やりたいです。命について語りたいです」と快諾されたのだった。
その最後の授業は「生きる」と題して、3月7日に行われた。当日は、朝日新聞の取材も入り、私たち4人の教育委員を始め、多くの父兄や教育関係者もその授業を参観した。
これが余命3ヶ月、あるいは1ヶ月と宣告された人かと目を疑うほど、先生は明るく元気に大きな声で子供たちにむけて「希望をもって生き抜く」ことをご自身の人生と重ね合わせて語られたのだ。まさにご自分の「命」を教科書として「生きる」ことの尊さを語ったのだ。子供たちは涙を浮かべながらも、じっと目を見開いて先生の話を聞いていた。
ただ、それまではご自分の病や髪の毛が抜けていることなどについて語るときも、明るく話されていた先生が、娘さんの話になった時だけは違っていた。娘を大学4年の卒業を前に突然死で亡くし、これからは涙と決別して娘の分まで生き抜くと決意したのに、自分がこんな病気になるとはと涙を流された。先生の涙を見たのは初めてだった。
そういえば、議会と教育委員会で退任のご挨拶をされた時も、「悔しい」「断腸の思い」と述べられたが、本当に悔しかったのだと思う。
それにしても、先生の授業を聞いて、「教師とはあくあるべきだ」と今更ながら思った。教師が帰るべき場所は、子供たちのいる場所、子供そのものなのだと。そして、子供たちの心を打つものは、教え方とか制度とか、そんなものではなくて、どれだけ自分の命をかけているかどうかにかかっているのだと思うのだ。人として、自分の全体重をかけて子供たちと向き合うことなのだと思うのだ。先生の授業を聞いて、確かに子供たちの命は救われたと確信できるのだ。これに比べたら、私の発言に対して「品格」がどうのとか、「反体制的」云々などと批判する輩の言葉なんて、実にちっぽけで、軽く、むなしいことのように思えてならないのだ。「教育の営み」とはこういうことなのだ。今、この国の教育に求められているのは、そういうことではないのだろうか。
でも、先生、もういいんです。もう、それ以上、頑張らなくてもいいんです。もう娘さんにお会いになりましたか?どうか、これからは娘さんと一緒に、桜の花の下で、楽しく酒でも飲みながら生きていって下さい。さようなら。