この国の図書館はどこに向かおうとしているのか

きのう/きょう/あす


今、うちの大学の図書館予算の改革は最終段間に入っている。多くの学部からはようやく賛同を得られるようになってはきたが、まだ一部の学部や教員の間では「電子ジャーナルが切られることは研究をするなというのと同じ」「図書館長は強権的だ」といった発言も聞かれている。私から言わせれば本当にその金額に見合う研究成果を挙げているのかと聞きたいところであるが、まあ、それは控えておこう。しかし、ことの本質は実は極めて「単純」なこと。「金がないのだから何かをあきらめる」それだけのこと。「いや、増額を要求すべき」「研究環境を整備すべき」・・そんな誰でも言えるような、それでいてほとんど実現不可能なことを言っていても始まらないのだ。まあ、大学教員というのはえてして「権利ばかりを主張する」ものだが。

ところで、今回の改革案の基盤となるのはこれまでにも色んな機会に述べてきた以下の考え方であるが、長いがやはりここにアップしておくことにする。

ローマ・カサナテンセ図書館
ローマ・カサナテンセ図書館
ドイツ・ハイデルベルグ図書館
ドイツ・ハイデルベルグ図書館

「この国の大学図書館はどこに向かおうとしているのか」

 今、この国の大学図書館は危機に瀕している。近い将来、紙媒体の本が消えようとしているのだ。もちろん、これは些かセンセーショナルな言い方であり、正確には新しく本が買えなくなるということである。

情報化社会、デジタル化という流れの中で、図書館も旧態然たる形ではあり得ず、時代に応じた変化が求められることは当然のことである。新しい「学びの場」の創出を目指した「ラーニング・コモンズ」はその典型であり、更には、書庫の狭隘化という点からも、紙ベースから電子媒体というのは必然ではある。しかしである。だからと言って紙媒体の旧来の書籍はその役割を終えるのかと言えば、やはりそれは「否」である。ところが、今、図書館から本が消えるということが現実味を帯びてきているのである。

たとえば、関西大学の場合、図書費総枠において、平成16年では紙媒体と電子媒体(正確には電子ジャーナルとデータベース以外に冊子体の逐次刊行物も含む)の比率が60対40であったものが、平成20年を境に逆転し、平成27年至っては書籍が30%を割り込んで27対73という情況である。次年度以降も更に電子媒体の比率が上がり、図書費総枠の大幅アップが望めない以上、近い将来には電子媒体が100%を超す可能性もなくはないのだ。これを単純に「時代の流れ」と看過してよいものだろうか。

電子媒体の比率がここまでになった理由は幾つかあるが、最初に断っておかねばならないのは、決して電子媒体の契約件数を毎年むやみに増やしてきたからではないということである。ここ数年来、契約件数は固定化されてきている。こうした情況に陥った最大の原因は、電子ジャーナル等の恒常的な値上げにあり(ここ数年の実績から平均するとほぼ毎年6%)、更に、為替の変動と消費税である。特に為替は、この2年の極端な円安によって約20%のアップ、それに消費税だから実に30%近くのアップとなる。いずれにせよざっと見積もって現在の契約をそのまま維持するとすれば、毎年3000万円から5000万円が加算されていくわけである。

実は電子ジャーナルやデータベースの契約には奇妙な「からくり」が存在する。それは、「パッケージ契約」というもので、必要なタイトル以外に、他の「おまけ」的なタイトルも抱き合わせをして販売するという仕組みである。それに加えて、出版社と取り次ぎのいわゆる「寡占」的状態が存在し、これが価格の高騰と恒常的な値上がりにつながっているのである。

もちろん、こうした電子ジャーナルパッケージ出版元の理不尽なあり方に対して、各図書館も決して手をこまねいているわけではない。JUSTICEという日本の大学図書館コンソーシアム連合を通してその「横暴」に異議を唱え交渉を重ねてきてはいるが一向に改善される気配はない。

Pay per viewに切り替えている大学もあるが、それとて逆に費用が嵩んだり、何よりもその利便性に於いて多くの不満も現れている。

いずれにせよ、この問題は関西大学だけの固有の問題ではなく、今や、この国全体、いや世界全体の問題となっている。中国でも、大型データベースのCNKIが北京大学ですら買えなくなっている情況である。日本学術会議なども問題視し始めているし、私も常々、この問題は今こそ国・文科省或いは国会図書館などが主導してナショナルライセンス的な形式を考えるべきだと主張しているが、その動きは極めて鈍いと言わざるを得ない。

こうした状況において、電子ジャーナルの契約維持のために紙媒体の予算を食ってきたわけであるが、いずれにせよ、紙媒体の書籍の一定程度の購入を担保するには、電子媒体の契約見直し以外には方法はない。ところが、これが極めて頭の痛い問題で、何が必要で何が不必要なものなのか、購読を中止する基準は一体何なのか、構成員の数によって利用頻度、コスト等は決まってくるのではないか、1人しか利用しないデータベースだからと言ってそれを「切る」ということは「研究をするな」と言うのに等しいなどと言われた場合に、たちまちその返答に窮してしまうのである。早い話、「あちらを立てればこちらが立たぬ」で、誰もが納得するような解決法はありえず、お互いに「譲り合って」としか言えないのである。

またこの問題は、一方で、「知のあり方」、更には大げさに言えば「学問観」が問われていると言ってもよいと私は考えている。

上でも述べたように、電子媒体は確かに利便性において紙媒体を凌ぐものであろうし、デジタル化も「知の保存」いう観点からも今後ますます推し進められるべきである。デジタル化において日本は諸外国に比べて明らかに遅れており、それは例えば、中国のCADAL(China Academic Digital Associative Library)や環太平洋デジタル図書館連合(PRDLA,最近はPRRLAに改称)に日本ではどの大学も加入していないばかりか、そもそもその存在すら多くの図書館関係者や研究者は知らないということからも明らかである。しかしながら、忘れてはならないことは、デジタル社会だからと言って、紙媒体の書籍が図書館に必要ないと言うことには決してならないということである。

中国語には「書香」という言葉がある。読書人の家柄を言う言葉であるが、世がいかにデジタル時代であっても、一方で「書の香り」は残されなければならないものだと私は思っている。書物の検索も、今は電子カタログでの検索が一般的であるが、それはあくまでも「目指すもの」がある場合である。電子辞書でも同様であるが、こうしたものでは「周りの余計なもの」が見れないのだ。私は、書庫に入って、書架を一つ一つ見ていくのが好きである。そうしたアナログ的な一見「無駄」な営みの中から実は新しい発見があったりするのだ。学に志す者は一度は「書の海」に浸るべきなのだと思っている。もちろん、私だって、デジタル書籍も読む。しかし、「スクロール」あるいは「タップ」と「めくる」という行為の決定的な違いがそこにはある。舌を舐めながら本をめくるという中から新しい発想が浮かんだりすることもあるのではないだろうか。

今この国ではこうした「余計なもの」「無駄」なものが「無意味」とされる傾向が強くなっている。文科省の「文系」の切り捨てという構想がその最たるものであるが、世はまさに「実学」一辺倒である。しかし、特に大学においては「無駄な学問」すなわち「虚学」も一方で重要なものなのだ。そもそも、「実学」と「虚学」は「あれかこれか」の関係でとらえるのではなく、「あれもこれも」であるべきだと私は考えている。「デジタル」と「アナログ」も同様である。「ジャーナルを休止して紙媒体を」というのが「時代に逆行している」というような意見は、学問研究の多様性を否定するものでもある。学問研究には、電子媒体が不可欠の領域もあれば、デジタル時代にあっても、紙媒体の文献資料が命となる分野も存在する。つまり、この場合にも、「あれかこれか」ではなくて「あれもこれも」と考えるべきものである。更に言えば、「あれかこれか」という二者択一的な発想は、グローバリゼーションにおけるアメリカ一国主義や、国際化イコール英語一語主義といった「違いを認めない」考え方と通ずるものであると私は考えている。いずれにしても、利便性の中で人は何かもっと大切なものを失って行くような気がしてならないのだ。

図書館は大学の「知の要」であり、教育・研究の根幹である。そこから書籍が消えようとしている。これを大学人としてどう考えるべきなのか。「本当にそれでいいのか」と全ての大学人に問いかけたいと思う。