道草
2006/01/15(日)
「教育」に関する話ばかりで恐縮だが、最近の「子供を守れ」のキャンペーンはどこかおかしい。
「子供を守る」ことは大人のつとめであり、身体を張ってでも守らねばならぬ。しかしながら、今のこの国でやろうとしていることは、自分は常に安全なところに身を置くやり方ではないか。
それは、私たちが学生の頃に、大学の当事者たちが取った方法と同じなのだ。
当時も、当事者たちは「大学の自治」を叫びながら、一方で、学生のストや団交では、我が身は隠して、機動隊のお出ましを願ったのだ。吉本隆明が批判したのはまさにその点だった。
今の「子供を守れ」キャンペーンは、一億総監視者に他ならない。問題の本質はそんなところにはないのに、「不審者情報」のキャッチと伝達、学校の門には鍵をかけて、さらには警備員も常時配備する。子供は道草せずにさっさと家に帰ること。これこそが学校と地域と家庭が一体となって子供を守ることだと考えている。
こんなことで、まともな子供が育つはずはないだろう。
子供は、学校の帰り道、いろいろ「寄り道」しながら、社会を学んでいくものだ。
「寄り道」や「道草」のない人生に、何の面白みがあるというのか。
大人がやるべきことは、先ずは自らの生き様を見せること、そして万が一の時には、命を張って子供を守ること。それに尽きるのだ。
今、命を張って子供を守っている大人の代表が「夜回り先生」である。
もちろん、誰もが皆「夜回り先生」になることはできないことも確かである。だからといって、彼の生き様を無視していいはずはないだろう。せめて、その「心」だけでも「共有」すべきなのだ。
先日、校園長会で、校長先生方を前にこのことをお話しした。そして、「このような先生が学校におれない状況こそ問題であり、それが今のこの国の状況を物語っている」と。
でも、反応はなかった(ように私は感じた)。
たぶん、彼も以前勤めていた学校ではそうだったのだろうと思う。
周りの先生からは「跳ね上がり者」「スタンドプレー」「格好付け」「講演と授業とどっちが大事?」・・そんな風に見られていたのだろう。それでいて、自分はできないから、直接はそんな顔は見せない。今は彼がいなくなって「ホッと」胸をなで下ろしているのかも知れない。
「熱い思い」を失ったとき、人は老いる。そのことを、今の大人たちは心すべきだと思っている。