「一件小事」
2004/12/13(月)
それにしても、もういい加減にしてくれと言いたくなる。
毎日毎日、我が子虐待、我が子を殺す、子供を殺す・・・。
最近、私の周りでは国旗、国歌について取り上げられることが多くなってきている。
自分の国を愛せない国民は不幸である。
自分の国の国歌を胸を張って歌えない国民は不幸である。
しかし、それを言うなら、本当にこの国が愛すべき国と言えるかどうかも問われなくてはならないだろう。
この国は子供達にとって、本当に「この国が好き」と言える状態にあるのかどうか。
親が我が子を殺す国、大人が子供を殺す国、唯一の被爆国として全ての戦争に「ノー」と言うべき権利と義務を有している国でありながら、大義なき戦争にも「イエス」と言わざるを得ない国、1億円をもらっておきながら「そんなのあったかな?」ととぼける大人達の住む国、・・そんな国を本当に愛せるのかどうか。
国旗、国歌を言う前に、この世の大人達にはやるべきことがあるのではないか。
誰もが「この国が好き」と言えるような国作り、それを為し得て初めて国旗、国歌についても語れるように思うのだ。
それにしても、このどうしようもない情況はいつまで続くのか。
そんな中で、少し私の心を軽くしてくれた「小さな出来事」が一つ。
3週間ほど前、出講している大学で、愛用していたモンブランの万年筆2本とペンケースを教卓に置き忘れたのだ。気が付いて、すぐに取りに戻った時には、すでに消えていた。
1950年代のモンブランで、金額はともかく、日本のオークションはもちろんのこと、アメリカのeBayでもなかなか出てこない品物である。何年かかけてようやくドイツから入手したものだった。
3週間経っても落とし物コーナーにも届けられず、あきらめていたのだが、何と、昨日、事務の人が郵送されてきたそれを教室まで届けてくれたのだ。その封筒には「出来心とはいえ、申し訳ありませんでした」という手紙も添えられていた。
私の不注意から起こったことであり、そんな気持ちを起こさせたのは私の責任である。私こそ、その人に謝らなければならないのだ。
きっと返すには、それを持っていくより「勇気」がいったことだろう。でも、そんな「勇気」に私は感謝したいのだ。そして、こんな些細な出来事でも、こういうことが積み重なれば、案外、この国も「まだまだ捨てたものじゃない」かも知れないという気持ちになってくるのである。
魯迅の「一件小事」ではないが、この3週間、このことで「世も末」とほんの一瞬でも思ってしまった自分の「小」を恥ずかしく思っている。