我が師、佐藤茂先生

きのう/きょう/あした


2004/01/25(日)

「ピンポーン」と玄関のドアのチャイムが鳴った。出てみると、宅配便。はて?と受け取り、中を開けると、册子が一册。

「佐藤茂文庫目録」ノートルダム清心女子大学図書館

とある。
そうか、佐藤先生の本は、ノートルダムに行ったのだ。
早速中を見てみると、16,000点に及ぶ先生の蔵書がそこに記されていた。 先生のご自宅の2階の書斎にあった全てのご本が今、ここに記されているのである。
あの部屋で、毎月開かれた福井言語学グループの研究会に出席していたこと、あるいは時々お邪魔しては、奧さまの翠さんを交えて美味しいお菓子をいただきながらお話を伺ったこと、あるいは、大学の研究室で「学者とは」「研究者とは」「言語とは」・・と色んな話をお聞きしたこと、そして、何よりも私が大学院を終える年に福井大学教員公募に応募した時に、先生のお部屋で今後の研究方法等についてお教えをいただいたことを思い出した。あの時は、4時間ほど話づくめでトイレにも行けず、最後にはそのために気分が悪くなったほどであった。
僕は『近代における東西言語文化接触の研究』の後書きにも記したように、多くの恩師に恵まれたことを幸せに思っている。
大学時代、私に最初に中国学への興味を抱かせたのは寺岡龍含先生であったが、言語学、国語学への興味を持たせてくれたのが、佐藤先生であり、また学問研究の嚴しさを教えて頂いたのも先生であった。このお二人の先生は犬猿の仲であったが、僕はこのお二人の先生から共に親しく教えを受けられたことを感謝している。
佐藤先生はいつも、「研究者、学者とは、1年365日一日たりとも休みはない。冠婚葬祭等があっても、優先さるべきは学問研究である」とおっしゃられ、朝の3時に起きて、朝食前に先ず一仕事、朝のNHK語学講座は毎日全部聴き、その後、大学に出かけて、授業と研究。夜もまた食事の後、研究して、早めに休む。そのような毎日を先生は本当に実行されたのである。冠婚葬祭よりも優先させるということでまさにそれを目の当たりにしたのが、奧さまの葬儀の時である。この時でも、先生は研究活動を休まれることはなかった。そのことを「無情」と誰が非難できるだろうか。奧さまの翠さんも、きっとそれをよく分かっておられたはずである。
もちろん生来「怠け者」の僕には先生の真似は絶対に出来ないことは自分でもわかっている。それでも、その学問への情熱、態度だけは少しでも真似をしたいものだと常日頃思っている。
大学院博士課程を終える頃の私にそれほど業績があるはずはなかった。かき集めてもせいぜい、3、4本。しかも、そのうち自分でも少し自信があるのは1本だけ。ところが、先生はその1本をもって、教授会での審査報告において、延々2時間にわたって、ホワイトボードまで使いながら、その論文の中身、将来性等々を説明されたと後日、他の先生からお聞きしたことがある。なにせその時の最終選考に残ったもう一人が、本来は私など到底太刀打ちできる相手ではなかったのにである。
そんな先生とは、その後3年間という短い間ではあったが同じ学科に所属する同僚として一緒に仕事が出来た。先生がご退職後も時折ご自宅にお邪魔していたが、関大に移ってからはその機会もほとんどなくなっていた。奧さまの翠さんが入院されたときに、一度お見舞いにあがっただけである。奧さまが亡くなられてから、先生はどうしておられるかと案じてはいたが、先生の死去の知らせを受けたのは、その8年後であった。
その前夜「言語研究所記録」の合册作業を行い、「続きは明日」と書斎のソファーに横になられ、そのまま旅立たれたという。
昔書いた『言語学批判』(三浦つとむ編)は先生に読んで頂いたし、先生の今回の文庫目録にも収められているが、僕の最近の仕事をお見せできないのが何としても残念である。もし先生が生きておられたら「内田君、よくやっているね」と襃めて下さるだろうか。そんなことを、今日手にした册子を見て思っていた。