『東方』No.239(2001.1) 書評 ]  内田慶市著『ハーバード電脳日記ーミセス・バーバラとの出会い』同学社

燕京図書館「踏査」記ー日本人中国学者が暮らしたアメリカ

荒川清秀(愛知大学)

  『ハーバード電脳日記』ー事情を知っている人にはすてきな書名である。しかし、一般の人がこの書名からどれだけ内容を想像することができるだろうか。現にある中国書専門店の関係者に本書の在庫を尋ねたところ、「中国関係の本とは知らなかった」という答えが返ってきたくらいである。評者が著者とは近い関係にありながら、あえて紹介の筆をとった次第である。
  本書は一日本人中国研究者がアメりカ、ハーバード大(より具体的に言えば燕京図書館。以下YLと略)での研究生活をホームページを通じタイムリーに世界の読者(?)に届けた日記である。評者も途中からではあったが、この日記を毎日楽しみに見た一人であるし、時には内容にコメントを加え議論した一人でもある。
  著者内田慶市氏は、若いころは三浦つとむや時枝誠記に傾倒し、その影響のもとに文法を中心とする論文を書いてきた。しかし、関西大学に移ってからは、研究環境の影響もあってか、近代ヨーロッパの宣教師たちが中国や中国語にあたえた影響つまり『西学東漸の研究』に取り組み、方言、近代中国語の研究、中国における英学史、イソップ東伝の研究で多くの成果を発表してきた。2000年春には同僚の沈国威氏と近代東西言語文化接触研究会を組織し、同年10月には機関誌『或問』第一号(白帝社級い)を創刊している。近代語の研究は、文法の研究とは違って、なにより多くの資料が必要となる。どんな資料があるのか、それをどのようにして手にいれるかが、研究の大きな部分を占める。もちろんそれは研究の前提かもしれない。しかし、この分野においては資料の発掘自体大きな仕事となる。こうした資料は中国にももちろん所蔵されているが、より多くまた整っているのは、かつて中国に進出していた欧米諸国の図書館、とりわけイギリスの大英図書館、フランスの国立図書館、それにYLである。氏がYLを研究の場に選んだ理由である。
  中国の図書館は、今でこそ利用が比較的容易になってきたが、かつては閲覧さえたいへんなことであった。ただ、少し前なら、よほどの貴重書は別として、アへン戦争後の書物については、古書店をこまめにさがせばさがせなくもないという状態であった。著者が最初に研究留学した80年後期の上海ではこうした資料をまだ比較的安く容易に手に入れることができた。しかし、資料との出会いは偶然に左右される。著者はこの偶然を必然に変えるため、その一年のほとんど毎日を古書店巡りに費やしたという(これで上海のめぼしい古書は枯渇したとか)。一般の人には信じられないかもしれないし、評者も古書店巡りに関しては人後に落ちないと自負しているが、それでも毎日通うほどの情熱はない。しかも、こうして、一年間苦労して古書店巡りで得た書物を、人から求められれば、氏は惜しげもなく提供する(誰にでもということはないでしょうが)。評者なども交換を前提にしつつも、氏が手に入れたものをたくさんいただいてきた。考えてみれば、ホームページで資料の発見、自分の研究の過程を公開するということ自体、きわめて気前のよいことではないだろうか。
  その氏が一九九八年三月末からボストンにあるハーバード大学東アジア言語文化系客員研究員としてアメリカに一年間滞在する機会を得た。途中夏の二月はドイツ、ゲッテインゲン大学での近現代漢語のシンポジウム(これには評者も参加) を含み、ヨーロッパの主要な図書館や古書店をまわっているし、最後のひと月は北京、香港、台北に滞在し、やはり資料漁りをしている。本当にその精力には頭が下がる。
  ところで、アメりカの古書店にそれほど期待できないことを早く悟った著者は、在米の一年をYLを中心とするハーバード大附属の図書館(80はある)の図書の検索と複写に費やした。YLは年間の休館日が数えるほどで、大学が休みのときも開いていることが多い。著者はYLが聞いている日はほぼ毎日通った。もちろん、興ののらない日もあり、そんなときは途中からダウンタウンへ買い物に行ったりしているが、それ以外は書庫での探索と複写にあけくれている。情報検索にかけては、YL自体も進んでいるし、著者もかなりのベテランだ。しかし、著者の言うように、「基本はやはり、このように書架を一つ一つみていくこと」(166頁)なのだ。したがって、図書館が休みになる祝祭日は、著者にとってはむしろ苦痛の日々となる。
  本書を読めば、YLが研究者に多大な便宜をはかっていることがわかる。まず、職員がすごい。なにかを聞くと、すぐにこれこれの本はどこそこにあるという答えが返ってくる。また、国を問わず他の機関にある資料が見たいときも、それがYLにも必要であると係りの人が認めれば、即座にYLの費用でマイクロ購入を決定してくれるとか、倉庫から本を取り寄せるときには一冊何ドルかかかるのに、利用者に一切経費の負担をさせないとか、 図書館に対する意見を述べる会があるとかである。ただ、これは評者が大英図書館でも経験したことだが、あるべき本がなくなっていることが多いし、線が引かれていたり、あるページが切られていたりもしている。そのためか、容易に見ることのできた本がいつの間にか貴重書のコーナーに持ち込まれ、利用がしにくくなっているという点もあとの方では指摘されている。
  異国での生活、しかもそれが中国ではなくアメリカということで、わたしたちは本書を日米中の比較文化の本としても読むことできる。副題にあるバーバラさんとは著者がアメリカで下宿していた家のホストマザーである。そのバーバラさんは、土曜の手抜きをのぞけば毎日おいしい食事(ここは朝夕のまかないつき)をつくってくれた人でもあったし、著者にとっては早くして亡くした母がだぶってみえた人でもあった。バーバラさんは、アメリカ人という異邦人を知る上でのキーパーソンである。ある日「今日はレストランだ」と言うので、初めての外食とばかり喜んで出かけると割り勘で、日本人である著者は苦笑いしながら結局全部を払ってしまうとか、バーバラさんが朝早く旅行に出かけるというので、早めに起きて送ろうとしたら「What are you doing ?」と言われてめんくらったとか、パソコンケースの注文でかけた一ドルばかりの電話代を請求されたとか、旅行に行ってもおみやげはなかったとか。日本人の我慢強さをもった著者も時には切れて、バーバラさんと火花を散らすことがある。しかし、著者の「人は基本的には分かり合える」という楽天的な性絡が、バーバラさんとの関係を強く信頼あるものにしていった。
  著者の日常生活は、図書館と下宿との往復、それにたまの買い物が大半で、これにハーバードに来ている訪問研究員の家族との英語教室、日本からの駐在員の家族、韓国、台湾からの訪問研究者等との交流が異国での潤いとなっていて、アメりカ入そのものとの交流はバーバラさんやその娘夫婦を除いては少ないが、アメリカ社会に対する観察も本書のはしばしに見られる。あいきつの快さ、手作りのおくりものにかけるアメリカ人の気持ち、弱者に対する思いやりは、さぞ著者の心をなごませたことであろう。自販機がほとんどない社会、ポルノが意外に規制されていること、白人女性の濃い産毛、おならを平気でする、自由に対する尊重等々の記述も興味深い。一方で、信号無視、車内での飲み食い、ゴミを平気で捨てる、整列乗車をしない、話し声が大きい等々(どこかの国に似ていますね)、「挙げ出したら切りがない」嫌な点も遠慮なく述べられる。英語に対する観察もみられる。評者がとりわけ印象に残ったのは、午前11時すぎにGood afternoon ! と言われ、そこで英語のあいさつは話し手の「将来に対する希望」を述べるのだと悟るところである(180頁)。ただし、あいさつにおける日本や中国などの「過去確認型」、欧米の「希求型」については、つとに言語学者の鈴木孝夫氏が述べていることではあるが。
  著者が開いているMao’s Home Pageは、その道の関係者の間では早くから有名で、現に『マックで中国語』(ひつじ書房、共著)という専門書まで出しているくらいである。評者は残念ながらその道に暗く、せいぜいメールで著者と交信ができただけだが、この方面に関心のある読者にとっては、本書を、どのようなマシーンが、またソフトが世界と交信し、情報交換し、文献探索する上で便利なのかを知る書としても読むことができるだろう。
  紀田順一郎氏に『日記の虚実』という本があるが、日記にすべてのことが書かれるわけではない。本書を読みながら評者はここに書かれていないことにもしばしば思いをはせた。しかし、日記だから思い切って書けるということもある。現行中国語テキストに対する批判、就職試験で学生が企業の担当者から「語学屋はいらない」と言われたことに対する怒り等々。名指しこそないものの、評者も本書の中でしばしば批判の対象となっている。しかし、それも「通説を鵜呑みしない」「権威に盲従しない」「真理の前では何人も平等である」という『或問』発刊の辞に照らせば、著者の批判精神の表れにすぎないのである。