教育人事権の地方移譲と教育委員会
次々と新しい構想を打ち出し、話題性には事欠かない橋下知事だが、今回の教育人事権を市町村へという提案は、極めて注目すべきものである。
地方分権という流れの中でのある意味では必然的な方向であるが、この問題提起に対して、各市町村の教育委員会および教育委員からの反応が全く聞こえてこないのは一体どういうことなのだろうか?そもそも知事直下にある府教委や教育委員が橋下案にどのような立場を取っているのかさっぱり見えてこない。
一昨年の学力テスト結果公表を巡る一連の橋下知事の発言に対して、私は何をどのように公開するか、また、それによって教育の何が変わるかを先ず問われるべきであること、さらに何よりも重要なことは、公表するか否かの判断は各市町村教育委員会の判断に委ねられるべきであって、それを府の予算配分の踏み絵とするというやり方は「地方分権の精神」にもとることと批判したことがある。
そんなことはあったにせよ、今回の提案は評価すべきだと私は考えている。人事権が各市町村教育委員会に移されれば、上に述べたような「恫喝」なども起こりえない。ただし、そのことと教育委員会不要論とは全く相容れない別の次元の話である。
知事はことあることに、「首長は教育においても責任を持つべきである」と述べている。そのことに異論はない。しかしながら、だからこそ教育委員会の役割が一層重要になってくるのである。
教育委員会制度の根本は「レイマン・コントロール」にある。教育の安定性と中立性の確保、地方の独自性を保つべく生まれたこの制度は、教育や行政のプロではないが、ある分野の識見を有する委員(=レイマン)が、総合的に基本方針を決定する仕組みである。教育委員はもちろん委員会内部にありながら、一方では常勤ではなく外部に属するものでもあり、だからこそ。任命者である首長からも、それを承認する議会からも、さらにはこの国の教育の大綱を決定する文科省からも、相対的に独立した機関として存在し、一種のチェック機能も付加されるのだ。こうした教育委員会こそ、今叫ばれている「地方分権」の精神に最も適ったものであるのだ。
問題はこの委員会及び委員が本来の機能を果たしていないことである。その原因の一つには首長が選び任命するという制度の下では、首長の意をくむ委員だけがかき集められるということが避けられない。そういう制度的な問題はあるにせよ、やはり最終的には委員の基本的姿勢である。レイマンとしての自覚を有してその任に当たっているか否かである。実際には、地方の名士に成り下がり、名誉職に安穏としているのが大半のように思われる。これでは委員会は教育の様々な問題に対処できないし、不要論が叫ばれても致し方ない状況にはある。それでも、やはり委員会は必要なのだ。
レイマン=素人だからこそ見えてくることは沢山ある。実は知事が新しい施策を打ち出し、多くの支持を得ているのも、彼がプロの政治家ではないからだと私は思っている。この点こそが彼の最も誇るべき所である。つまりは、既成の概念にとらわれず、素人の目線でこそ見えてくるプロの世界の本質ということであり、このことが非常に大切なことなのだ。だとすれば、これは教育委員会でも同じことであり、レイマン・コントロールとはまさにそのことなのだ。
繰り返すが、教育人事権を市町村に移譲した後にも、委員会は教育の安定性と中立性のために必要不可欠である。加えて、国と地方、都道府県と市町村という分権の関係は、首長あるいは地方行政全体と教育委員会の間でも考えられていいと思っている。つまりは、委員会制度発足時にはあって今はない予算案や条例案の送付権の復活を視野に入れた、地方行政全体の中における委員会への「分権」である。首長の考えも十分反映させながら、委員会独自でそれを議論して決定していくという仕組みにすることだ。教育委員会の地方分権化とはそのような二重の意味を含むものと考えるべきだと思う。もちろん、最終責任はあくまでも首長にあることは言うまでもない。同時に、教育委員の公選制についても大いに議論されてよい問題である。
いずれにせよ、橋下知事の提案に、府教育委員会はもちろん、各市町村教育委員会および教育委員はその立場を明確に示すべきである。さもなくば、残された道は教育委員会の解体でしかない。
内田慶市
関西大学教授(文化交渉学)
元大阪府吹田市教育委員長