水谷先生へ

 今日のご講演は何としてもお聞きしたかったのですが、公務のため水曜日から土曜日まで東京出張のため果たせず、本当に残念です。
 先生には教育委員会として是非とも吹田市でご講演をと以前から願っており、事務局にもその旨を何度もお願いしていたのですが、意外にも人権平和室主催という別の形で実現できたことを大変嬉しく思っています。これまでずっと、多くの人に先生のお話を聞いて欲しいと思っていました。
 今この国では、子供たちの命がどんどん奪われて続けています。そして、それに対して私を含めた大人たちは何ら有効な手段を講ずることができず、やることは、子供たちにキッズセーバーを持たせたり、学校の門を閉じたり、守衞を常駐させたり、見回り隊を組織したりといった、場当たり的な対応しかできずにいます。もちろん、そのことも大切なことですが、それだけでは問題の本質は解決にはつながらず、あくまでも「対症療法」に過ぎないことも事実なのです。また、一方では、このような「情況」に対して、それは「愛国心」の欠如によるものという短絡的な見方による、教育基本法の改正までも持ち上がっています。誰だって、どの国の人だって、自分たちの国を愛したいし、愛すべきでしょう。しかし、それは、あくまでも「愛すべき国」でなくてはなりません。誰でもが、心から愛せる国の「体」をなしていなければならないでしょう。ところが、実際はそうではありません。この国の政治や大人たちは、この国をそのような姿に見せてはいないのです。政治や大人たちのやるべきことをやらずして、何が「愛国」でしょうか。子供たちを殺す国がどうして愛すべき国なのでしょうか。そんな風に私は思います。
 先生のご本の中でも繰り返し述べられているように、明るい太陽の下で、しなやかに、のびやかに生きていくはずのこの国の子供たちは、「夜の世界」「暗黒の世界」にさまよっているのです。
 子供たちを救えずして、何が「教育」でしょうか。「教育」とは、その漢字の由来からも、本来、「子供」をベースにしたものです。「子供を救う」こと「子供を守る」ことは「教育」の根本であるはずです。ところが、現実はそうなってはいない。そんな中で、子供は「夢」や「希望」をもてなくなっているのだと思います。私たち大人は身体を張ってでも子供を守る責務がありのだと思います。
 「教育」の中立性ということが言われます。でも、僕は「教育」はもっと、もっと「偏向」していいのだと思っています。それは、イデオロギーや政治的立場で偏向するのではなく、あくまでも「子供の側に立つ」ということです。とことん子供の側に偏向すべきだと思っています。
 もちろん、誰もが水谷先生になることはできません。結局は「逃げている」と先生からはお叱りを受けることは承知しています。それでも、自分の持ち場でやれることをやっていってもいいのだと思うのです。せめて、その「心」だけでも「共有」すべきだと私は考えています。
 この年の初めの校長会でもそのことを話しました。私の話に涙する人はいないでしょうけど、水谷先生の本やビデオを見て涙しない人はいないはずです。それは一体どういうことなのか。ひたむきに、子供を救おうとするその心が人を打つのだと思います。そして、そのような先生が現場におれない情況もまた問題であると私は思います。それが、この国の現状なのです。かつて、遠藤豊吉とか村田栄一という先生もそうでした。現場では常に浮き上がってしまうのです。それは、その人たちの責任ではなくて、そうさせる周りの先生方の問題に他なりません。そういえば、先生のご本の中で、先生の地元の教育委員会では講演が出来ないということも書かれていました。そんな教育委員会が日本の教育委員会の実態なのでしょう。悲しいことです。
 一人の教育委員として、また、一介の教師として今私に出来ることは、実のところ何もありません。ただ、先生の言われるように、私の出来る範囲で「子供に寄り添い」「優しい言葉をかけ続けて」いくと同時に、これからも、先生のお仕事を周りに伝えていきたいと思っています。
 今日の先生のご講演で、また何人かの子供の命が救われたはずです。そのことに私は心からお礼を申し上げたいと思います。
 先生、どうか、お身体だけは大切にして下さい。先生が倒れたら、多くの子供たちが生きていけなくなります。第2の夜回り先生はこの世に存在しないのです。これが私の先生へのお願いです。
 お会いしてこのことをお伝えしたかったのですが、それは叶いそうにありませんので、この手紙を託しました。