再論「文化の翻訳」をめぐってー『天主降生出像經解』の「繍像」について

東西學術研究所研究例会 2000.6.21.

0. はじめにーリッチ(利瑪竇,1552-1610)のもたらしたもの
萬曆二十八年。瑪竇偕龐迪我等八人。赍貢物。詣燕京進。。。。 謹以原攜本國土物,所有天主圖像一幅,天主母圖像二幅,天主經一本,珍珠鑲嵌十字架一座,報時自鳴鐘二架,萬國圖誌一冊,西琴一張等物,敬獻御前。此雖不足為珍,然自極西貢至,差覺異耳,且稍寓野人芹曝之私。《正教奉褒》4-5

この他にも天文器機類()やガラス製品(プリズムや鏡、瓶など)、銀貨、犀の角等々があった。→「利瑪竇攜物考」(王慶余1985)や艾儒略「煕朝崇正集」

リッチはこれらの品を皇帝に献上しただけでなく、広く一般の中国人にも見せたり分け与えたりしている。

裴化行(Bernard,R.P.Henri)《利瑪竇司鐸和當代中國社會》(1937)に以下のようにある。

他在南昌也和在肇慶時一樣,把西洋的奇珍物品陳列出來,供人參觀。還屢次把這些東西借給幾個重要人物拿回去仔細賞鑒,比方那人稱寶石的三稜玻璃,那畫得極精美的聖母抱耶穌油畫像,封面裝釘有花紋邊上鍍金的西洋書籍,這就叫他們知道我們西洋地方也講文理,因為他們心目中以為我們沒有讀他們的書,卻能做一個有學問的人,這是一件極難相信的事。(208p)

講到聖像,最受人尊重的是救世主像和天主的母親聖母像。他們稱之為聖母娘娘。我們特別需要兩本那笪爾司鐸所印刊的聖像書。。。使我們可以有機會向儒士們說明我們來華立教的緣起。至於平民。。。我們需要幾種普通的小冊子附有許多圖像用以說明聖教奧理和天主十誡七罪宗七件聖事等,這是極有用處的,這些圖像不妨粗糙一點,不必精美,用不著藝術的作品,因為中國畫是不分陰陽面的。有一位官員見了一本講述救世主事蹟的小冊子,竟看得出神,我便說這是我們教中的書籍,不便相贈,卻送給他一本伊索寓言。他欣然受下。好像這是弗拉芒印刷術的精品一般。(209p)

リッチが中国にもたらしたものの中には「イソップ」までも含まれていたことも興味深いが、今回は特に絵画、聖像書に注目してみたい。

このリッチがもちこんだ西洋画(宗教画)のリアル性は当時の中国人にとっては極めて新鮮で驚くべきものであったはずである。たとえば、リッチは神宗皇帝と慈聖皇太后の反応を次のように記述している。

飾り壁を見た国王は驚いて言った。「これは生きている偶像[活仏]だ」。これは、彼らの言い方であって、さしずめこう言ったのであろう、「これは生きている神だ」。彼はそうとは知らずにほんとうのことを言ったのだ。なぜならば、彼が礼拝していたのは死んだ神々だからだ。それはいまもわたしたちの画像の名称[活像]として残っている。そしてそれを贈った神父たちを人びとは「生きている神を贈った人びと」と呼んでいる。しかし国王はこの生きている神をひどくこわがり、聖母の飾り壁はその母親に贈った。偶像を深く信仰していた彼女もそれがあまりにも生き生きとしているのでこわがった。それゆえ、飾り壁は宝物庫[内庫]に納められて、現在もそこにある。多くの官吏はこの宝物庫を管理している宦官の好意を得てそれを見に行く。(マッテーオ・リッチ『中国キリスト教布教史1』1982,岩波書店,477-478p)

この初めて見た「中国人もびっくり」した西洋画の手法とは、いわゆる遠近法(パースペクティブ)であるが、中国人はこれを「凹凸」という言葉で表現し、中国の画家に影響を与えている。

顧起元(1565-1628) 『客座贅語』(萬暦46=1617年の序)に次のようにある。

利瑪竇
利瑪竇西洋歐羅巴國人也。面皙,虯鬚,深目而睛黃如貓,通中國語,來南京居正陽們西營中。自言其國以崇奉天主為道,天主者,制匠天地萬物者也。所畫天主,乃一小兒,一婦人抱之,曰天母。畫以銅板為幀,而塗五采於上,其貌如生,身與臂手儼然隱起幀上,臉之凹凸處,正視與生人不殊。人問畫何以致詞,答曰:中國畫但畫陽,不畫陰,故看之人面軀正平,無凹凸相。吾國畫兼陰與陽寫之,故面有高下,而手臂皆輪圓耳。凡人之面,正迎陽,則皆明而白,若側立,則向明一邊者白,其不向明一邊者,眼耳鼻口凸處皆有暗相。吾國之寫像者解此法,用之故能使畫像與生人亡異也。(卷六)

凹凸畫
歐羅巴國人利瑪竇者,言畫有凹凸之法,今世無解此者。建康實錄言:一乘寺寺門遍畫凹凸花,代稱張僧繇手跡,其花乃天笠遺法,朱及青綠所成,遠望眼暈如凹凸,就視即平,世咸異之,名凹凸寺。乃知古來西域自有此畫法,而僧繇已先得之,故知讀書不可不博也。(卷五)

清代の張庚の「國朝畫徴録」(乾隆四年=1739)でも焦秉貞を評する際に、この『客座贅語』を引いて以下のようにいう。

焦秉貞,濟寧人,欽天監五官正。工人物,其位置之自近而遠,由大及小,不爽毫毛,蓋西洋法也。
明時有利瑪竇者,西洋歐羅巴國人,通中國語,來南都,居正陽門西營中,畫其教主,作婦人抱一小兒,為天主像,神氣圓滿,采色鮮麗可愛。嘗曰:中國秖能畫陽面,故無凹凸;吾國兼畫陰陽,故四面皆圓滿也。凡人正面則明,而側處即暗,染其暗處稍黑,斯正面明者,顯而凸矣。焦氏得其意而變通之,然非雅賞也,好古者所不取。(卷中)

このほか、姜紹書の『無聲詩史』、『帝京景物略』、鄒一桂の『小山畫譜』袁棟の『書隠叢説』などもリッチのもたらした凹凸の技法に言及している。→林金水『利瑪竇與中國』(1996,中國社會科學出版社,256-261p)

このような西洋画の技法をまず実践したのは、宮廷画家であったが、たとえば、神宗帝はリッチやパントーハの肖像画を描かせている。耶蘇会士の遊文輝(1575-1630)のリッチ像は中国人によってそのような手法で書かれた最初のもの(1610)と考えられている。 また、リッチは萬暦33年(1605)に程大約(1549-1616?)に4枚の銅板宗教画(Wierixによる)を贈っているが、それを中国人(丁雲峰作画、黃鏻翻刻)の手によって翻刻されたものが『程氏墨苑』(1604)に収められている。なお、リッチの贈った図にはラテン文字による音注が附されており(いわゆる『西字奇跡』=1605北京刊、なおそれ以前にもルッジェーリとの共編になる『葡漢辞書』『賓主問答私擬』にもローマ字音注はあるが、いずれも稿本であり、刊本としてはこれが最初)、聖母像は長崎のセミナリオでジョバン・ニコラ(Jean Nicolao)によって彫られたものである。

1. 『天主降生出像經解』

 さて、ここに一册の面白い本がある。ハーバード大学のホートンライブラリーで偶然目にしたものであるが、中身はキリストの一生を絵と文で描いたものである。特にその絵が興味深く、一種の「漫画」「連環画」とでも言ってよいものである。原画(原書)を模刻したものであろうが、どこか中国的なのである。それは上に触れた程氏墨苑の絵とも共通するものであるように思われる。

1.1 本書の体裁

 表紙には『天主降生言行紀像』とあるが、序には『天主降生出像經解』とある。
 引(艾儒略の序)3葉、本文26葉、全29葉、51話(図)
 刊行年の記載はなし。
 ただしハーバード藏本のメモには以下のようにあり、1640年頃の出版と思われる。

This “Life of Christ” was produced by the Chinese-European printing press of the Jesuit Fathers in China about 1640, and illustrated by a Christian artist in the Chinese style.
Highly interesting block-book produced by Chinese Christians under the direction of Jesuit Fathers between the years 1635-1640. NO OTHER COPY IS RECORDED. Henri Cordier in “L’Imprimerie Sino-Européenne au XVIIe et au XVIIIe siècle”, Paris 1901, p.1-2, No.3, describes another similar block-book of which also only one copy is recorded. It seems to be engraved by the same artist and apparently was written by the same authors as ours, i.e. Giulio Alenio(1582-1649), an Italian Jesuit and missionary who came to China in 1613 and died there in Fou-Achéon in 1649. He wrote about 25 works in Chinese and was called by the Chinese the “Confucius of Europe”.

 ここでの「一册しかない」というのは、コマーシャルベースの話で、実はパリ国立図書館には7種の版本が残っている。そのうちの、請求番号Chinois 6756は『天主降生言行紀像』とあり、26葉、51図とあって恐らくハーバードのものと同じである。ただ現物はChinois 6750の『天主降生出像經解』(1637)と序文のないChinois 6751しか見ていないので今は確定的なことは言えない。
 なお、B.N.の6750はCordierの『L’IMPRIMERIE SINO-EUROPÉENNE EN CHINE. BIBLIOGRAPHIE DES OUVRAGES PUBLIÉS EN CHINE PAR LES EUROPÉENS AU XVIIe ET AU XVIIIe SIÈCLE(17c-18cの中国に於ける西書漢訳目録)』(Paris Imprimerie Nationale,1901)に以下のように艾儒略の著作として挿し絵入りで収められている。

1. Aleni(Giulio), 艾儒略
3-3. 出像經解
Tch’ou siang king kiai, 1637, 1 k. — Vie illustrée de Notre-Sei-gneur.
Les planches, gravées en Chine, de ce livre sont tirées de l’ouvrage sur les Évangiles du P. Jérome Nadal, S.J.(né à Majourque en 1507; + à Rome le 3 avril 1580); elles sont gravées en Chine d’après les planches de Wierx (Jean, Antoine et Jéròme).

 その該当個所の絵はハーバード藏本の24番にあたるが、内容も若干異なり、参照指示もCordierでは「見行紀二卷十六」とあり、ハーバード本では「見行紀二卷十九」とある。また、このB.N6750は本文28葉、56図であり、序文の最後にはIHSの印が押され、刊行年(天主降生後一千六百三十七年、大明崇禎丁丑歳二月既望)と刊行場所(晉江景教堂繍梓)も示されているが、ハーバード本にはそれがない。つまり、兩者は別の版本ということになる。

1.2. 本書の成立

この書の成立について、序では以下のように述べている。

天主降生出像解引
粵昔 上主嘗預示降生救世之旨於古先知之聖,故從古帝王大聖獲聆真傳者咸企望欲見而多未獲滿意也,逮其果降生于大秦顯無數靈蹟,代人贖罪死復活而升天,普天下諸國得聞聖教好音,亦無不願生同時以親睹聖容光輝也,于是圖畫聖像與其靈蹟,時常寓目以稍慰其極懷焉,吾西土有 天主降生巔末四部,當代四聖所記錄者,復有銅板細鏤吾 主降生聖蹟之圖數百余幅,余不敏嘗敬譯降生事理於言行紀中,玆復倣西刻經像,圖繪其要端,欲人覽之如親炙吾主見其所言所行之無二也,中有繪出於言行紀所未載者,蓋更詳聖傳中別記悉繪之以見其全也,至於形容無形之物,俾如目睹,則繪法所窮,是以或擬其德而摹之,或取其曩所顯示者而像之,如 天主罷德肋與斯彼利多三多本為純神超出萬相,然繪罷德肋借高年尊長之形者摹其無始無終至尊無對之德也,繪斯彼利多三多取鴿形者,蓋吾 主耶穌受洗於若翰時 天主聖神借鴿形顯示其頂故也,若天神亦為無形之靈,第其德不衰不老,則以少年容貌擬之,神速如飛,則以肩生兩翅擬之,清潔無染,則以手持花枝擬之,凡如此類義各有歸總,非虛加粉飾以為觀美而已,顧 天主無窮聖蹟,豈筆墨所能繪其萬一,而玆數端又不過依中匠刻法所及翻刻西經中十分之一也,學者繇形下之跡以探乎形上之神,繇目睹所已及併會乎目睹所未及,默默存想,當有不待披卷而恆與造物遊者,神而明之,是則存乎人已

遠西耶穌會士艾儒略敬識
同會 瞿西滿 陽瑪諾 聶伯多 同訂

つまり、キリストと共に生き、その聖なる姿、光輝を我が目でみるために、その聖像と奇跡を図像で描いたこと。西洋にはそのようなキリストの一生を記した書物や銅板画が数百枚あること。艾儒略はかつてそれらを「言行紀」(つまり『天主降生言行紀略』1635-1637?)として訳したこと。今回さらにまた、その西洋の絵入りのものに倣って、中国人に中国の手法によってその要点を翻刻させたこと。無形な物を如何に表すかということ。たとえば、聖父、聖神、天使の表し方。これは原書の本の十分の一であること。学ぶ者は、形而下のものを通して、形而上の神を探るべきであること等々が述べられている。

 ところで、ここで言う「キリストの一生」を描いた図入りの本、つまり本書が元にした原書であるが、先のCordierの記述や、Bernardの記述などから、以下の沈福偉の『中西文化交流史』(上海人民出版社,1985)に見えるNadalのナダル(Nadal)の『聖教詮釋』(Adnotationes et meditationes in Evangelia)である可能性が高い。

1598年、龍華民(ロンゴバルト)はかつてヨーロッパに画冊を送るように要求した。なぜなら西洋画には陰陽明暗があって中国人にすこぶる喜ばれたからである。その年に中国にやってきたポルトガルのイエスズ会氏羅如望(Joannes de Rocha 1566-1623)はリッチが北京に赴いた後、南京に到着した。1609年彼は『天主聖像略説』を著すが、その中の図像は1595年ベルギーで出版されたナダル(P.Nadal)の『聖教詮釋』(Adnotationes et meditationes in Evangelia)の中の彫刻画を翻刻したものであり、これらの図画もまたWierixの手にかかるものであった。(432p)

 『程氏墨苑』との類似性も同じ彫刻者ということであれば肯ける。

 ただし、沈は更に次のようにも述べている。

リッチがキリスト教画を献上した後、1640年11月には湯若望がさらに思宗皇帝に天主図像を進上した。Bavaria(バイエルン)の君主マクシミリアヌス(Maximilianus)はかつて羊皮で彩色の天主降生事跡図を装幀し、また蝋で作った三王來朝天主の彩色聖像1座を北京に送り、湯若望に託して思宗皇帝に献上した。その本は全部で64枚、図は48幅である。原本はすでに見ることは出来ないが、艾儒略の著作に「玫瑰十五端図像」と「出像經解」があり、後者は1637年に刊行され、又の名を「天主降生言行紀略」といい、その図は57幅で、費頼之によれば、これは楊光先が引いた湯若望が進呈した図像であるという。楊光先は「不得已」の中で湯若望が進呈した図像に倣った説があり、かつてその原図の第28,42,43の3図を模写している。ただし、人物の面容、長矛、単刀はみなすでに中国化している。(沈,432-433p)

 すなわち、艾儒略が元にしたのはマクシミリアヌスが湯若望に託した天主降生図だというのであるが、これは年代的に些か無理があるように思われる。もちろん、湯若望が託されたものと艾儒略が参照したものが同じものであったことは十分に考えられるし、また、楊光先は確かに湯若望を引いてその説を駁してはいるが、むしろその絵は徐宗澤や費頼之のいうように、艾儒略の本を引いたと考える方が自然のように思われる。

出像經解一卷(一六三五年印行,本刻圖像五十六,楊光先攻擊聖教,即據是書,謂,教友所崇拜者,乃圖恢復如德亞國被釘耶穌云)(徐宗澤《明清間耶穌會士譯著提要》365p)

出像經解一卷,一六三五年本,即前書初刻本的附圖也。一六六三年楊光先即據此圖厚誣耶穌為罪人。(費賴之《入華耶穌會士列傳》157p)

 なお、この両者とも刊行年が1635年になっているのは俄には肯定し難いところであるが、今後の調査に待つことにする。

1.3. 本書の内容

1. 聖若翰先天主而孕 (1a)
2. 天主降生聖像(諸神瞻仰聖容四聖記錄靈蹟) (1b)
3. 聖母領上主降孕之報
4. 聖母往顧伊撒伯爾
5. 天主耶穌降誕
6. 遵古禮命名
7. 三王來朝耶穌
8. 聖母獻耶穌于聖殿
9. 耶穌十二齡講道
10. 耶穌四旬嚴齋退魔誘
11. 大聖若翰屢證耶穌為天主
12. 婚筵示異
13. 凈都城聖
14. 西加吸水化泉
15. 救伯鐸羅妻母病瘧
16. 山中聖訓
17. 納嬰起寡婺之殤子
18. 渡海止風
19. 若翰遣徒詢主
20. 赦悔罪婦
21. 播種喻
22. 五餅二魚餉五千人
23. 耶穌步海
24. 起三十八年之癱
25. 胎瞽得明證主
26. 底落聖蹟
27. 大博山中顯聖容
28. 天賞喻
29. 貧富生時異景
30. 貧善富惡死後殊報
31. 伯大尼亞邑起死者於墓
32. 異學妒謀耶穌
33. 預告宗徒受難諸端
34. 葉禮閣開三朦
35. 入都城發嘆
36. 以宴論天國諭異端昧主
37. 灌足垂訓
38. 世界終盡降臨審判生死
39. 立聖體大禮
40. 囿中祈禱汗血
41. 耶穌一言仆眾
42. 繫鞭苦辱
43. 負十字架登山
44. 被加荊冠苦辱
45. 耶穌被釘靈蹟疊現
46. 耶穌復活
47. 耶穌將昇天施命
48. 耶穌升天
49. 聖神降臨
50. 聖母卒葬三日復活昇天
51. 聖母端冕居諸神聖之上 (26a)

 さて、この本に見られる「絵」についてである。
 楊光先の絵ほどではないにしても、明らかに原画とは異なったイメージがそこにはある。何よりもそこには「陰」がない。「陰」はあっても、よく見ると「けったい」である。武器が中国式に変わっている。雲が特徴的である。それは、中国伝統の「繍像」に見えるそれと同じではないか。17世紀のこの絵と清末のものとを比べてみても大差はない。つまり、これは西洋画ではなくて、中国に同化したそれである。
 「キリストの一生」という極めて崇高なもの、聖なるものまでも、中国化することに彼らはやぶさかではなかったということである。中国人に受け入れられさえすれば、中国人が好むものでありさえすれば、彼らは布教のためには讓歩したということである。
 筆者はかつて、中国語訳イソップに見える「文化の翻訳」の方法について述べたことがある。特に、ロバート・トームの『意拾喩言』についてであるが、そこで彼は、イソップに登場するギリシャの神や英雄を中国風に変えてしまった。ダイアナは「嫦娥」であり、ヘラクレスは「阿彌陀佛」のように。時間と場所も同じく、「禹」の時代であったり、虞舜や神農の時代であったり、峨眉山や羅浮山であったりのようにである。このような、言語における中国への同化と同様のなことが、絵画や彫刻においても確かに存在したのである。リッチ以降の来華宣教師の「文化の翻訳」とはまさにこのような形で行われたのである。