「邪宗門」

きのう/きょう/あした


2003/12/18(木)

これは島崎藤村でも、芥川龍之介でも、北原白秋でもない。高橋和己とは少し関係がある(高橋和己の『邪宗門』がその背景にあることを作者から聞いている)が、都はるみの歌である。その作詞者は道浦母都子さん。
道浦さんとは、ある仕事をご一緒させて頂いていることもあって、「無援の抒情」が都はるみの歌ではどうなるのか興味があって聴いてみた。
確かにその詩は「ドキッ」とさせられる。まさに「情念」の詩である。

残照の光の海を
二人行く ふたりゆく
花のごとかる罪を抱きて
ただ一本 買いしコスモス しろじろと
素直なるかな 花の透明・・・・・

これはいわゆる並の「作詞者」にはとうてい描き得ない「詩」である。「二人行く ふたりゆく」など実に憎らしいぐらいの表現である。この漢字とひらがなの差異を曲にした時には、どう表現されるのか。それが聴きたくてCDを買ってみた。演歌は好きだし、自分の「心の歌は演歌である」とアメリカに居たときに悟った僕だが、これまで演歌のCDを買うことはまずなかった。
昨日からそのCDを何度も聴いているが、どうも心の中に入ってこない。響いてこないのである。つまり、曲が詩に負けているような気がしてならないのである。確かに「大曲」なのではあるが、「作為」が多すぎる感じがする。曲の進行が素直でないのである。容易にくちずさめない。弦哲也には多くの名曲があるし、その中には大曲と呼んでもいいようなものも存在する。ただ、この歌は少なくとも私の中では大曲とは呼べないものであるように思われる。
「素人が何を」と言われるのは分かっているが、名曲、大曲とは、聴いて心地良く、しかも1.2度聴いてすぐに口をついで出てくるものでないといけないと僕は考えているからである。同じ作曲者の「千年の古都」や「天城越え」がそれであるし、谷村新司の「昴」や堀内孝雄の「山河」、小椋佳の「愛しき日々」等々がそうだと僕は思っている。
このことを道浦さんに話したら、「コンサートで聴くといいですよ」と言われた。確かにそうなのであろうが、それは恐らく歌手や作曲家の「独り善がり」のような気がしている。あまりに「詩」が素晴らしいので、作曲家の肩に力が入ったのだろうと僕には思われる

何事も、力が入りすぎると駄目なのかも知れない。「しなやかで」「のびやかな」心でいつもいたいものだと思っている。

ところで、以前に触れたことのある山本義隆氏の本が大佛次郎賞を受賞したとのこと。嬉しいニュースである。世が世であれば、ノーベル賞も夢ではなかったはずなのに。ケプラーが何故「重力」でなく「磁力」という言葉を使ったのかという疑問から始まったという20年間の研鑽の結果である。「すべてを疑え」はやはり「真理」なのである。