ファルセットから思うこと

きのう/きょう/あした


2004/02/14(土)

 森山直太郎の「桜」は何度か聴いた。
初めのうちは、結構「いける」と思っていたのだが、どうも、最近はあの「裏声」というか「ファルセット」が鼻、いや耳につく感じがしてならない。
 昨日、偶然、昨年の紅白歌合戦の再放送を見た。ちょうど、その森山直太郎の番からだったが、その後に続いて出てくる歌手の歌が、どうも同じような曲想というか、曲の進行が共通しているように思えてならない。
 浜崎あゆみ、Zone、aiko、中島美嘉、一青窈とか、皆同じなのだ。しかも、左手で音を取るしぐさまで共通していたりする。
 これが僕にはどこか「不自然」に思えるのである。
 無用な高音の使い方が気になってならない。作為的である。
 そして、このような感覚を以前にも覚えたことがあるような気がして、よく思い出してみたら、そう、Globeとか安室、TRFとかいった人たちが出てきた頃である。
 どうやら「元兇」は小室哲哉である。
 僕は、歌というのは、「聴いて心地良いものでなくてはならない」と思っているが、小室に始まる歌たちは、どれも、奇をてらいすぎており、素直にその曲に入っていけないのである。
 聴き手の期待というか、予想を裏切るような曲の進行もあってもいいだろう。演歌で言えば、香西かおりの「流恋草」なんかはそういうところがある。つんくの曲でもそうである。でも、作為的であって、作為を感じさせないところがいいのである。
 昔の荒井由美が登場した時がそうである。彼女の歌も、これまでの日本の歌にはなかった和音や進行が見られたが、実に気持ちの良いものであった。
 そういう歌が良い歌と言うのだろう。
 荒井由美の影響を受けたはずの尾崎亜美などでもそうである。だから、今も歌い継がれているのだと思う。
 小室以降の小室流の曲が果たして今後も生き続けるか、見物である。

 要するに、奇をてらったり、本質をはずれた「にせもの」というのは、歴史の中で結局は埋もれたり、消え去る運命にあるのだと思う。今、日本の大学で叫ばれる「改革」なるものが多分その類である。
 学問・研究の方法にも色々ある。その時代にあった研究方法も当然あるし、今を盛りの学際的な研究は必要である。でも、一方で、伝統的な手法も認められるべきであるし、これらは、どちらが正しくて、どちらが間違いという問題ではない。
 「不易と流行」これらは互いに補い合うものであるはずである。もちろん、両者は「対立」するものと見なしても一向に構わない。それでも、「対立物の統一」こそ、弁証法の根本である。「あれか、これか」ではなくて「あれも、これも」という考え方が今の時代にこそ求められているのだと思っている。そのような発想がしにくい時代、出来なくなっている時代を僕は悲しいと思うのである。