二つの声明文

きのう/きょう/あした


2006/07/13(木)

一昨日、関大生のドラッグ(マジックマッシュルーム)の服用による飛び降り死亡という事件が起こった。このところ、東大阪大学や大阪府立大生によるリンチ殺人事件、阪大生による母親殺害事件等々、大学生による悲惨な事件が相次いでいる。学生による事件のみならず、一方ではいわゆる「セクハラ」や「アカハラ」事件も頻発している
このような「状況」に対して、それぞれの大学は何ら有効な手だてを講じることができないでいることは、各大学のかかる事案に対する声明文に示されている。ただ、唯一の救いというか、おそらく、「この地平に立ち戻る」ことしか、このような「状況」を打破することができないだろうと強く共鳴した発言が阪大の鷲田さんの文章である。
この文章と我が大学の声明文を読み比べて欲しい。
前者の、大学人としての自らの大学の教育のあり方への強い反省や現在のこの国の社会の種々の問題に対する問いかけ、そして何よりも「大学とは」という根本的な問い直しがそこに見られるのに対し、後者は、ただただ本件は一学生の問題であり大学とは無関係、あるいは、「謝ればそれでいい」という態度がかいま見れるのである。そのことは、昨日の副学長の記者会見でも同様であった。
確かに、今の大学、社会の「状況」とは複雑で、その本質が、鷲田さんの発言だけですべてが「見えて」くるものではない。しかしながら、このような「状況」が生み出される要因の一つに、現在の日本の各大学が進めている「改革」があることはやはり否定できないものだと思う。
私学は言うに及ばず、国立も「法人化」によって、「人集め」を大学の第一義としている。そのためには、「大学とは」という理念もビジョンもかなぐり捨て、とにかく、「学生や社会のニーズ」に適った「斬新」で「人気が取れる」「改革」の「目玉」を次々と繰り出すのである。そこには、「学問の伝統」も、研究者の責務と誇りもあったものではない。そして、その結果生み出されるものは「インデパ的」学生以外の何者でもないのである。
「インデパ」や「学際」が悪いのではない。それは時代の要求として「必要」ではあるが、一方では、確固たる「専門」がその背景になくてはならぬのである。「不易と流行」はまさに「弁証法」である。「あれかこれか」ではなくて「あれもこれも」でなくてはならぬ。そのことを今の大学は分かっていない。
私たちは、「大学とは一体何なのか」そのことを今こそ問い直すべきなのだと思う。それは、また「生きる」とは、「人とは」を問い直すことと同義であるはずである。