「教育再生」?

きのう/きょう/あした


2006/11/19(木)

文科省は相次ぐいじめ自殺事件に対処するため生徒指導担当課長緊急連絡会議を招集した。
これまで数々の痛ましい事件が起こっても、何ら有効な手を打つこともせず、ただただ手をこまねいてきたこの国の教育責任機関。遅ればせながら、何とかしなければという動きを見せたことだけは一応評価する。
しかしながら、このようないじめの根幹に、この国があたかも「国是」の如く推し進めてきた競争原理があることをまずは知るべきなのだ。
偏差値最優先、強いものが正義、勝ち組と負け組を明確に選別するこの国のあり方には目をつぶり、一方で、「愛国心のなさ」「ふるさとを愛する心の欠如」「ゆとり教育の弊害」などと、およそ本質とは全くかけ離れたものにその原因を求めるこの国の教育行政を見直さない限り、問題の本質的な解決など到底望めないのだ。
そして、このような事件が頻発しているにもかかわらず、その根本原因である「競争原理」をさらに強化する「教育再生」を振りかざすのがこの国の現状なのだ。教育バウチャー制度などその典型であるし、男女共同参画を唱える人は「偏向」した人たち、今の歴史教科書は自虐的、過激な性教育を糾せ、などと主張するこの国の補佐官が選んだブレーンの顔ぶれを見てもそれは明らかである。
彼らの唱える正しい歴史認識とは、都合の悪い歴史事実には目をつむるということである。
彼らの性教育批判とは、全く違った副読本をもって当該の副読本を批判することはさておき、性器の描写だけを見て、全体の趣旨を見ようとしない「断章取義」に他ならない。「木を見て森を見ず」とはまさにこのことである。
横浜の某先生に至っては、実は劣等感の裏返しの何ものでもないだろう。かつて「落ちこぼれた」彼の根底にあったのは、「いまにみろ」「いい大学に行って見返してやるのだ」でしかなかっただろう。 落ちこぼれの気持ち、他人の痛みを知れといいながら、それは自らがエリートの道を進む口実ではなかったのか。
なにはともあれ、今、この国の「教育」に求められるのは、「教育」の文字が持つその本質的な意味である。それが「子供」を基に成り立っているというその点であるのだ。