「学問的」ということ

きのう/きょう/あした


2007/06/15(金)
「沖縄線での集団自決に日本軍の強制はなかった」とする教科書検定意見に対して、沖縄では怒りの声が噴き上がっている。文科省はこれに対して、「あくまでも学問的判断に基づくもの」としているが、これが「学問」というなら、僕はそんな学問なんてごめん被りたいと思う。
科学的、学問的証拠がないから、だからどうだというのか。それであの戦争が肯定されるとでもいうのだろうか。日本軍が沖縄住民を巻き込んだ事実は明らかなはずである。
実は、この問題は南京虐殺事件、従軍慰安婦問題ともその背景にあるものは同じである。
従軍慰安婦問題でも、アメリカの新聞に「旧日本軍によって強制的に従軍慰安婦にされたことを示す文書は見つかっていない」という広告が出されるという。
だから、何だというのか。「公娼制度は当時の世界では普通のことだった」ということは、つまり彼女たちは金儲けのために自ら進んで従軍慰安婦となったとでも言いたいのか。その戦争がなければ従軍慰安婦も存在しなかったはずなのだ。
南京も同様である。「10万とか20万とか数字はでたらめ」。それはそれでいいだろう。でも、1人でも10人でも同じではないのか。「アジアを興し、アジアをヨーロッパ列強の侵略から守るための正義の戦い」だからと言うのか。しかしながら、そもそも、あの戦争がなく、この国があの国に攻め入らなければ、何も起こらなかったはずである。
科学的、学問的根拠がないということで事実が否定されるものではないだろう。あの戦争があったことは紛れもない事実なのだ。
そして、そういった主張をする人たちが、教育再生会議の主要なメンバーだったりすることこそ、まさに今のこの国の危うさを示している。
学問研究には客観的な事実の積み重ねが必要である。それは重々承知している。しかしながら、そこにも熱い人の血が流れていなければならないのではないか。僕はそんな風に思っている。