なぜ「ノー」と言えないのか

きのう/きょう/あした


2011/07/08/(金)

15年前の故高木仁三郎氏らの警告を無視して、今回の大惨事を引きおこしたのに、それからたった3ヶ月で、世の中は、なし崩し的に原発再開だ。 しかも、「やらせ」まで行ってである。
ストレステストを課すのがなぜダメなのか。
最低限の安全対策もせずに何が再開なのか。
菅さんの唐突さや「ぶれ」ばかり指摘するが、しかしどれも。この国の安全を考えればごくごく当たり前のことではないか。
それが今頃テストとか、一貫しないと批判するのは、ひとえに「再開ありき」だからなのだ。
民主も自民もこの点では同じ穴の狢である。実は、最近の論調を見ていると天下の朝日だって同じであることが明らかである。
フジサンケイやヨミウリは勿論だが、朝日だって所詮、ジャーナリズムを語る資格などないのだった。(もうかつて、須田禎一が指摘した通り、日本のジャーナリズムは安保の時にとっくに死んでいたのだから)
朝日が「菅さんは、市民運動家へ原点回帰をしている」と書いていたが、それは当たっているだろうし、それででいいのだと私は思う。
腐った政党にどっぽり浸かってしまっている政治屋どもに脱原発など語れるはずはない。それは沖縄の基地だって同じである。
既成の政党、政治家どもには「基地はノー」「原発はノー」なんて絶対に言えないのである。
彼らにはこの国の人々の安全や、命なんてどうでもいいことなのだ。そんなことより、1票が、権力が欲しいだけなのだから。