政権交代、書は人なり

きのう/きょう/あした


2009/09/10(木)

遅ればせながら、政権交代について。
予想はされたが、実際にここまでとは思ってはいなかった。でも、そうなったのだが、それでも、僕は正直言って、実はそれほどの期待も、希望も持っているわけではない。
所詮、民主党なのだから。
メンバーの経歴を見たらそれは一目瞭然のはず。自民と本質的にはそれほど違っているわけではないのだ。有権者の意識だって、多分その程度。
だって、本当に、政権交代と言うなら、社民や共産の票がもっともっと伸びないと駄目だろう。
それに、恥ずかしい話ではあるが、私の故郷の福井県や、島根、鳥取といった「裏日本」の保守の強さが、この国に真の政権交代はないことを物語っている。
靖国の映画を「自虐的だから」とその上映に異議を唱え、一方で「母親に子守唄を」といった恥知らずの、無教養をさらけ出した福井の稲田某や(子守唄とは、「竹田の子守唄」に典型であるが、決して母親が子どもに歌うのではなく、幼くして故郷を離れて子守り娘の歌ったもの)、小泉2世はともかくも、市長の息子というだけで議員になっている鯖江の山本某などを当選させるような国に未来はない。
ところで、連立政権合意書のサインを見て、げんなり。
鳩山、亀井はまだしも、文春だったか、新潮だったかが、早速「小学三年生」と揶揄した、福嶋さんのあの字は何なの?
「書は人なり」という言葉がある。
字を見れば、その人となりも自ずと分かるというものである。
とりわけ、人の上に立つ人、人前で仕事をする人は、美しい字、美しくなくても、整った字、丁寧な字であって欲しいと思う。
それは、学歴とか教養とかとは本来無関係なのだ(僕の母は、小学校しか出てないが、なぜか字が綺麗で、子ども達にも小さい時から毎日、字の練習をさせていた)が、汚い字や、乱雑な字を見ると、ついついその人の中身まで疑ってしまうのだ。
要するに、家庭教育と幼児教育が大切なのだ。
今は、小学校から大学の先生まで、綺麗な字を書ける人が本当に少なくなっている気がしてならない。
練習すれば、それなりの字は書けるはずなのだ。
ひょっとしたら、こんなところから、世直しは始めないといけないのではと思ったりしてしまう。